神様を呼んで
役所の資料室を出たときには、すでに外は夕暮れの気配に満ちていた。
西の空が、じっとりと血のような赤色に染まっていく。昼間のまばゆい青空が嘘のように、世界の輪郭がどろどろと影の中に溶けていく時間帯だ。
「……うちの旅館、行こう」
車内を満たす重苦しい沈黙を破ったのは、勿忘だった。
「うちの蔵には、おじいちゃんが遺した古い郷土史の文献とか、村の記録がたくさん眠ってるの。役所の公文書に載らないような、この土地の古い伝承なら、何かわかるかもしれない」
慧は何も言わず、ただ小さく頷いてハンドルを切った。
バックミラーに映る彼の横顔は、彫刻のように硬く強張っている。現実主義者の彼にとって、「公式の記録」と「自分の記憶」が真っ向から矛盾しているという事実は、世界そのものがひび割れていくような恐怖なのだろう。
勿忘の実家である旅館は、村のはずれ、山の斜面に張り付くようにして建つ古い木造建築。
通された奥の座敷は、い草の匂いと、長い時間が堆積した特有の埃っぽさが漂っている。
勿忘が蔵から抱えてきたのは、表紙が擦り切れ、紐で厳重に縛られた何冊もの和綴じ本だった。
「これが龍神祭の起源について書かれたものだと思う」
畳の上に広げられた古いページを、俺たちは息を潜めて覗き込んだ。
達筆な筆文字と、ところどころ虫食いのある挿絵。そこには、毎年夏の終わりに開催される、この町最大の祭りに関する記述が遺されていた。
『龍神祭、別名目ウツシマツリ。神様の影を現世に写し取り、その怒りを鎮め、恵みに感謝するための神事なり』
慧が、眼鏡の奥の目を細めて文字を追う。
「神様の怒りを鎮める、か……。そういえば、この村の神社が祀ってるのって、具体的に何の神様か、お前ら知っとるか?」
「……水の、神様だろ?」
俺は記憶を手繰り寄せながら答えた。
「小さい頃、親からそう聞いた気がする。深山にある『龍神の淵』に住んでるって」
「そう。でも、名前は誰も教えてくれへんかった」
慧が頁をめくる指を止めた。その指先が、ある一箇所を強く差す。
そこには、墨の跡も生々しく、その神の真の名が記されていた。
【この地を統べる龍神の御名――キミト様】
「……き、みと」
その名前を、俺の唇が、無意識に形作っていた。
言葉として脳に認識された、その刹那。
パキィン、と頭の中で、何かが完全に割れる音がした。
凄まじい激痛が、脳髄を直接鷲掴みにした。
視界が急激に明滅する。座敷の畳が、障子が、慧と勿忘の顔が、すべての現実がガラス細工のように粉々に砕け散り、暗黒の渦へと吸い込まれていく。
『――な、奏。ほんまに、ここ入ってもええん?』
頭の中に、幼い慧の声が響いた。怯えをはらんだ、今よりもずっと高い声。
視界が切り替わる。
そこは、夜。
懐中電灯の細い光だけが、うっそうとした木々を照らしている。
『大丈夫だって。誰も見てないよ』
答えているのは、十四歳の俺だ。
俺たちは手を繋いでいた。俺、慧、勿忘。三人の震える小さな手が、お互いの体温を確かめ合うようにぎゅっと握り合わされている。
ざあざあと、不気味なほどに静まり返った夜の森。
その最奥。絶対に立ち入ってはいけない、神社の禁足地――「龍神の淵」。
懐中電灯の光が届いた先には、深く、吸い込まれそうなほど澄んだ、青い水が湛えられていた。
その水面の中央に、ぽつりと。
向日葵の柄のワンピースを着て、長く黒い髪を揺らした少女が、水の上に浮かぶようにして立っていた。
彼女の髪に飾られたガラスの鱗が、月光を浴びて妖しくきらめく。
少女はゆっくりと振り返り、俺たちを見て、少しだけ困ったように、だけど愛おしそうに微笑んだ。
『――見つかってしもたなぁ、うちの秘密基地』
その声が、俺の耳の奥に、胸の奥に、狂おしいほどの熱量を持って蘇ってくる。
「……キミト」
気づけば、俺は座敷の畳に両手をつき、荒い息を吐き出していた。
額から大粒の汗がボタボタと畳に落ちる。
「奏! おい、しっかりしろ!」
慧が俺の身体を強く支えている。彼の顔は恐怖で真っ白だった。
「思い、出した……」
俺は、震える手でダッシュボードから持ってきていたガラスの髪飾りを握りしめた。
「俺たち、あの夏の夜、あの淵に行ったんだよ!!絶対に立ち入っちゃいけない、龍神の淵に。そこで……俺たちは、あの子に出会ったんだ」
勿忘が、口元を両手で覆い、目から大粒の涙をこぼしていた。
「私も……今、見えた。長い黒髪の、女の子。向日葵のワンピースを着て、寂しそうに笑ってた……」
「キミト様……」
慧が、掠れた声でその名前を呟く。
名前を口にした瞬間、世界の霧が完全に晴れた。
俺たちの記憶がズレていた理由。川辺、神社の裏、竹林。それはすべて、あの淵の周りにある景色だったのだ。
けれど、記憶が戻ると同時に、さらなる冷たい戦慄が俺たちの背筋を駆け抜けた。
なぜ俺たちは、あれほど大切だったはずの彼女のことを、丸ごと忘れてしまっていたのか。




