泡沫を探して
「落ち着いたか、奏」
慧が差し出してきた缶コーヒーを受け取る。プルトップを引き抜くと、カシャ、と乾いた音が静かな車内に響いた。
竹林の秘密基地から命からがら逃げ出すように戻ってきた俺たちは、神社の駐車場に停めた軽自動車の中で、言葉を失っていた。
ダッシュボードの上には、先ほど掘り起こしたガラスの髪飾りが置かれている。
車内のエアコンがどれだけ冷気を出しても、その髪飾りの周りだけ、まるで別の空間のように不自然に澄んだ光が溜まっていた。
「……なぁ、二人とも。本当に、誰も見覚えがないんだな?」
俺は痛むこめかみを押さえながら、二人の顔を見つめた。
慧はハンドルに突っ伏したまま、苦り切った顔でダッシュボードの鱗を見つめている。現実主義者の彼にとって、目に見えない現象は、最も受け入れがたいものなのだろう。
「少なくとも、俺の記憶にはない。町の中学や高校の女子がそんなもん付けてたら、嫌でも目につくはずや。……勿忘、お前伝統工芸の織物とか和小物やってる職人見習いやろ。こういうの、見覚えあるか?」
後部座席で髪飾りをじっと見つめていた勿忘が、おそるおそる手を伸ばした。
指先がガラスに触れた瞬間、彼女はピクリと肩を揺らす。
「……これ、ガラスじゃないかもしれない」
「え?」
「ガラスにしては、光の屈折が複雑すぎる。この細工……。うちの工房にある古い文献のどれとも違う。まるで、本物の生き物の鱗をそのまま固めたみたいな……」
勿忘の感受性は、時として鋭すぎて恐ろしくなる。
彼女の言う通り、その髪飾りは人間の手で作られた工業製品には到底見えなかった。
「なぁ」
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、第一話で勿忘が共有してくれた十年前の写真をもう一度開いた。
夕暮れの逆光の中、泥だらけで笑う俺たち三人。そして右端に写る、向日葵のワンピース。
「この写真、よく見てくれ。俺たち、なんでこんなに泥だらけなんだ?」
慧が顔を上げ、画面を覗き込む。
「……川で遊んでて、転んだんやろ」
「いや、違う。俺の記憶の川辺は、もっと綺麗だった。それに、三人とも服の袖までボロボロだ。まるで、何かから必死に逃げて、這いつくばったみたいに……」
「やめろ、奏」
慧の声が、低く、威圧的な響きを帯びた。
「それ以上はオカルトや。俺の脳は正常だ。お前の脳も、勿忘の脳もな。……ただ、何かがおかしいのは事実や」
慧はエンジンをかけると、ギアをドライブに入れた。
「どこへ行くんだ?」
「役所や。俺の職場。十年前の広報のアーカイブとか、地域の記録が全部残ってる。学校の名簿もある。もし『もう一人の幼なじみ』とかいうんが実在したんなら、どんな手段を使ってでも、この町に生きた痕跡が残ってるはずや」
車が急発進し、神社をあとにした。
窓の外を流れる龍水村の景色は、昼下がりの強い日差しを浴びて、やはり嘘みたいに美しく、静まり返っている。
◇◆◇
役所の地下にある、薄暗い資料室。
蛍光灯のジジジ……という不快なノイズだけが響く空間で、慧は職員用の端末を叩き、俺と勿忘は古いバインダーをめくっていた。
十年前の、俺たちが高校生だった夏の、地域住民の記録。
転入届、転出届、あるいは事故や事件の記録。
「……ない」
勿忘が、溜息混じりにページを閉じた。
「同級生の名簿も、その前後の学年も全部見た。うちらと仲の良かった女の子なんて、どこにも名前がないよ」
「こっちも同じや」
慧がキーボードから手を離し、画面を見つめたまま固まっている。
「十年前の夏、この村に滞在していた観光客や親戚のリストも洗ったが、該当するような少女は一人もいない。……存在しないんだ、そんな人間は」
やっぱり、俺たちの集団幻覚なのか。
東京での疲れが呼んだ、ただのノスタルジーのバグなのか。
諦めと、それ以上の言い知れぬ寂しさが胸に広がろうとした、その時。
「……待て。何だ、これ」
慧の声が、裏返った。
彼が操作するモニターの光が、彼の青ざめた顔を不気味に照らし出している。
「慧? どうしたんだよ」
「地元のニュースアーカイブや。十年前の、あの夏休みの終わりの……」
慧の指が震えながら、一つの記事をクリックする。
画面に表示されたのは、モノクロの、だけど生々しい土砂崩れの現場写真だった。
【十年前・八月三十日。龍水村を襲った未曾有の集中豪雨。裏山が大規模に崩落、土砂が神社周辺を直撃】
その見出しを見た瞬間、俺の全身の毛穴が総毛立った。
「……嘘だろ」
俺は画面に顔を近づける。
「土砂崩れ? そんなの、あったか……? 俺たちの記憶の中のあの夏って、毎日が嘘みたいに晴れ渡ってて、最高の夏休みだったはずじゃ……」
「そうや。俺たちの記憶では、あの夏は一滴の雨も降らんかった。毎日、毎日、狂ったように晴れてた。……なのに、公式の記録には、村が壊滅しかけるほどの災害があったって書いてある」
慧がゆっくりと俺を振り返った。その目は、恐怖に泳いでいる。
「おい、奏。俺たちはあの夏、本当に『晴れた空』の下にいたのか?」
資料室の冷気が、容赦なく俺たちの身体を芯から冷やしていく。




