陽炎を揺らして
「やっぱり、何も変わってないな」
慧の軽自動車から降りた俺たちは、山の手前にある古びた神社の鳥居を見上げていた。
木々の緑が幾重にも重なり、光を吸い込んで深い影を作っている。その奥から、ひんやりとした湿った風が、山の呼吸のように吹き下ろしてくる。
時刻は午後二時。太陽は天頂からわずかに傾き、世界を濃い明暗で真っ二つに切り裂いていた。
蝉の声は相変わらず狂ったように降り注いでいる。なのに、鳥居を一枚くぐると、まるで世界の音がふっと遠のくような奇妙な静寂に包まれた。
「ここが俺の記憶の場所。神社の裏手や」
慧が先頭に立って、慣れた足取りで玉砂利を踏みしめていく。
本殿の脇を抜け、普段は誰も立ち入らないような裏手に回る。そこには、数百年もの間、風雨に耐えてきたのであろう巨大な杉の木と、その根元にひっそりと佇む古い社殿の影があった。
「ほら、ここ。十年前、俺たちはここで雨宿りをしてた。絶対そうや」
慧は確信に満ちた声で、社殿の床下の隙間を指さした。
確かに、そこは子供の秘密基地には絶好の隠れ場所に見える。
だけど、俺の胸の中にある記憶のピースとは、どうしても噛み合わない。
「……違うんだよなぁ」
俺は首を振る。
「俺の記憶の中では、もっとこう、すぐ近くに水の音が聞こえてたんだ。キラキラした川面が夕日に光っててさ……」
「それは奏の都合のいい妄想やろ」
慧が冷ややかに、だけどどこか焦りを含んだ目で俺を見た。
「いいか、十年前の夏の気象データを調べたわけやないけど、俺たちの記憶がバラバラなんてあり得ん。誰かの脳が、都合よく記憶を書き換えてるんや。……例えば、東京で疲れてるお前とかな」
「俺のせいにするなよ。じゃあ、勿忘の竹林の記憶はどうなるんだ?」
二人の視線が、一歩後ろで静かに佇んでいた勿忘へと向く。
彼女は、神社のさらに奥――鬱蒼と茂る緑の境界線を見つめていた。その瞳は、まるで現世ではない、もっと遠くの何かを映しているかのように澄んでいる。
「……私の言った竹林は、この神社の、もっと奥だよ」
勿忘が、ぽつりと呟いた。
「ほら、あそこから細い獣道が続いてるでしょ?」
彼女が指さした先には、草に埋もれかけた、人一人がやっと通れるほどの細い道があった。
その先は、外からの光を拒むように、深い竹の葉の海が広がっている。
「行ってみよう?」
勿忘の、静かだけど芯のある声に押されるように、俺たちはその獣道へと足を踏み入れた。
◇◆◇
カサ、カサ、と乾いた笹の葉を踏みしめる音が、静寂の中に響く。
一歩進むごとに、外世界のうだるような暑さが嘘のように消えていき、肌寒いほどの冷気が衣服に染み込んできた。
頭上を見上げれば、天を突くような青竹が密に群生し、太陽の光を不規則な格子状に切り刻んでいる。差し込む光は、まるで水底に届く光のように淡い淡い緑色をしていた。
風が吹くと、何千枚もの笹の葉が、ざあぁ、と波のような音を立てて擦れ合う。
それは、遠い記憶の底で聞いた、誰かの優しい囁き声のようにも聞こえた。
「――あ」
どれくらい歩いたろう。
先頭を歩いていた勿忘が、不意に足を止めた。
竹林が開けた、小さな空間。
ぽっかりと空いた世界の空白のようだった。
木漏れ日が、スポットライトのようにその場所だけを丸く照らしている。その中心に、一本の大きな、朽ち果てた流木が横たわっていた。
「ここ……」
俺の心臓が、どくんと大きく脈打った。
川辺ではない。神社のすぐ裏でもない。
だけど、この風景を知っている。
その流木に腰掛けて、足をぶらぶらと揺らしながら、笑っていた誰かの姿が、陽炎のように一瞬だけ脳裏をかすめた。長い黒髪、そして――鮮やかな向日葵のワンピース。
「間違いないわ」
慧が、地面の隅に目を凝らしながら、いつもより硬い声で言った。
「見ろ。流木の陰に、半分土に埋もれてる」
慧が指さした場所を、俺は夢中で駆け寄り、素手で泥をかき分けた。
ひんやりとした土の中から現れたのは、ひどく錆びついた、小さなクッキーの缶だった。
十年前、俺たちがここに埋めた宝箱だ。
「開けるぞ……」
錆びついたフタを、爪を立てて無理やりこじ開ける。
キィ、と嫌な金属音が竹林に響き渡った。
缶の中には、湿気て色あせたトレーディングカード、ビー玉、そして、三人で書いた交換日記のノートが入っていた。
間違いなく、俺たちの子供時代の残骸だ。
その一番奥に泥に汚れることもなく、まるで今さっきそこに置かれたかのように、異質な輝きを放つものが、ひっそりと横たわっていた。
「……何、これ」
俺は、吸い寄せられるようにそれを拾い上げた。
ガラスの髪飾り。竹林の淡い緑の光を吸い込んで、それはまるで生き物のように、深く、妖しくきらめくそれは、龍の鱗のように見えた。
「そんなの、入れた記憶ないぞ」
慧が顔を青くして、一歩後退りする。
「勿忘、お前のか?」
「ううん、違う。見たこともない……」
二人の困惑の声を余所に、俺はその髪飾りから目が離せなくなっていた。
指先から、痛いほどの冷気がじわじわと腕を伝って、胸の奥へと流れ込んでくる。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
竹林の緑が、一瞬にして、燃えるような夕暮れの茜色へと染まる。
『――かなで』
耳元で、誰かの声がした。
少し古風で、鈴が転がるような、どこか切ない京都弁。
『うちはな、かなでとおるの、たのしい』
夕暮れの川辺。
手を繋いでいた。小さくて、少し冷たい、だけど愛おしいその手を。
俺は確かに、その子の隣で、沈みゆく夕日を見ていた。燃えるようなオレンジ色に鮮やかな薔薇色。淡い黄色と水色。色の濁流が俺達を染め上げていく。
カチャリ、と手のひらの中でガラスの髪飾りが音を立てた。
「奏?どうした?」
慧が俺の肩を掴んで揺さぶる。
我に返った時、視界は元の淡い緑の竹林に戻っていた。
額から冷たい汗が伝い落ち、地面の腐葉土に吸い込まれていく。
俺は、髪飾りを握りしめたまま、震える声で呟いた。
「……いる」
「は? 何がだよ」
「三人じゃない。あの夏、俺たちの隣には、絶対に『もう一人』誰かがいたんだ」
握りしめたガラスの鱗は、俺の体温を拒むように、いつまでも冷たいままだった。




