夏に揺られて
こちらの作品は神田義一さんから頂いたあらすじで書かせていただいております。
「うわ、まぶし……っ!」
ローカル線の古い車両から一歩踏み出した瞬間、肺の腑までひっくり返るような、圧倒的な緑の匂いが鼻腔を突き抜けた。
東京の、アスファルトが焦げるような生ぬるい夏とは違う。
肌をチリチリと焼く容赦ない太陽と、山から吹き下ろす、どこか冷気を含んだ風。そして、鼓膜を震わせる暴力的なほどの蝉時雨。
海埜奏、二十六歳。東京の映像制作会社でアシスタントディレクターなんていう、寝る間もない仕事を始めて数年。心も体もすっかりカサカサに乾ききっていたけれど――。
「帰ってきた……っ、めちゃくちゃ久々だ、龍水村!」
改札のない、無人の木造駅舎。思わず大きく両手を広げて深呼吸する。
都会のノイズに押し潰されそうになって、突発的に取った有給休暇。けれど、この突き抜けるように青い空を見た瞬間、胸の奥にたまっていた澱が、すうっと澄んだ空気へと溶けていくのが分かった。
「相変わらず、大げさな奴っちゃな。東京で頭おこなったんかと思ったわ」
改札の向こうから、聞き馴染んだぶっきらぼうな声。
少し日に焼けて、白いシャツをスマートに着こなした幼なじみが、呆れたように笑っていた。
「慧! 勿忘!」
「久しぶり、奏。元気そうでよかった」
隣町の役所に勤める現実主義者の夢島慧と、実家の旅館を手伝いながら職人見習いをしている斉藤勿忘。
高校卒業以来、ほとんど会えていなかったはずなのに、顔を合わせた瞬間に十年の距離がゼロになる。それが幼なじみという、理屈じゃない関係の心地よさだった。
「お前ら、わざわざ迎えに来てくれたのか」
「勿忘が『奏が急に帰ってくるから、絶対なんかあったんだ』ってうるさくてな。俺は公務員の貴重な半休を削ってきたわけ」
「もう、慧だって真っ先に車出すって言ったくせに」
勿忘がクスクスと笑う。物静かな彼女の空気感は、地元の澄んだ川の水によく似ていた。
慧の運転する軽自動車に乗り込み、窓を全開にして、見慣れた田舎道を走る。
黄金色に揺れる稲穂、どこまでも続く入道雲、そして遠くにそびえる、深く青い山々。
「あー、生き返るわ……。とりあえず、どっか寄ろうぜ。川の方とかさ。昔よく集まった、俺たちの秘密基地とか、まだあんのかな」
何気ない一言だった。
エアコンの風と、外から流れ込む熱気が混ざり合う車内に、楽しげな笑い声が満ちていた、はずだった。
「秘密基地な。懐かしいな。神社の裏の、あの薄暗い影のところやろ? あそこでよく雨宿りしながらカードゲームしたわ」
慧がハンドルを握ったまま、さらりと言った。俺は助手席で、一瞬、首を傾げる。
「え? 何言ってんだよ慧。秘密基地は山の川辺だろ。大きな岩の影に、流木を集めて作ったじゃんか。冷たい水に足を浸しながら、ラムネ飲んだろ?」
「は? 何言うてんねんお前。そんな川の近く、危なくて基地なんか作れるか。神社の裏やって」
慧の声に、少しだけ真面目な困惑が混ざる。
バックミラー越しに、後部座席の勿忘と目が合った。彼女は、膝の上で細い指先をぎゅっと絡ませながら、小さな声で言った。
「ううん、二人とも違うよ……? 秘密基地は、竹林の中。笹の葉が擦れ合う音がずっと聞こえる、緑の光が差し込む場所にあったよ。だって、そこにうちらの宝箱、埋めたもん」
車内を流れる、単調なロードノイズ。
エアコンの吹き出し口から、急に冷たい風が強く吹き出されたような、奇妙な静寂が三人の間に落ちた。
川辺。神社の裏。竹林。
全員の記憶が、全く噛み合わない。
同じ夏を、同じ時間を一緒に過ごしたはずなのに、見ている景色がまるで違っている。
「……待てよ。じゃあさ」
胸の奥がチリ、と微かに痛むのを感じた。
楽しかった帰郷の、その柔らかい日差しの中に、冷たい針が一本、紛れ込んできたような違和感。
「俺たち、あの夏――誰と遊んでたんだっけ?」
なぜ、そんな疑問が浮かんだのか、自分でも分からなかった。
俺、慧、勿忘。三人だ。それ以外に誰がいる。
だけど、喉の奥が妙に渇く。
「誰、って……俺たち三人に決まってるやろ。他におるわけない」
慧の声は冷静だった。だけど、いつもより少しだけ早口だ。
「……あ」
後部座席で、勿忘が小さく息を呑んだ。彼女はスマートフォンの画面を凝視している。
「片付けしてたら、当時のガラケーのデータが同期されて……これ、見て」
勿忘が差し出してきた画面を、奏と慧が覗き込む。
それは、十年前の夏の夕暮れ。逆光の中で、泥だらけになって笑う、中学生の頃の俺と慧と勿忘の姿だった。
けれど、その写真の右端――。
誰の身体も写っていない。ただ、画面の端のほんのわずかなスペースに、夕暮れの風にふわりと翻る、鮮やかな向日葵の柄のワンピースの裾だけが、鮮明に写り込んでいた。
「これ……誰の服?」
勿忘の声が、微かに震える。それを見た瞬間、俺の脳裏を、夏の陽炎のような、激しい目眩が襲った。
記憶の底に沈んでいた「何か」が、猛烈な勢いで泡を立てて浮上してこようとしている。
誰かがいる。
この、向日葵のワンピースを着た、長い黒髪の、誰かが。
俺は、その人のことが、どうしようもないくらいに――。
心臓が、どくん、と嫌な音を立てて跳ねた。
美しいはずの故郷の夏空に、サーッと不穏なノイズが走る。
「……なぁ、奏」
慧が、バックミラー越しに鋭い視線を投げかけてくる。
「お前、なんで急に有給なんか取って、この村に帰ってきたんや?」
「え……?」
俺は、言葉に詰まった。仕事が辛かったから。都会に疲れたから。そう思っていた。
だけど、本当にそれだけだったか?
(違う。俺は、約束したからだ)
雷が落ちたような確信が、胸を突き抜ける。
誰かと、約束した。大人になっても夏の終わりに、ここで会おうと。
「……約束、したんだ。誰かと」
「誰とだよ」
「それが……思い出せないんだ」
窓の外では、変わらない蝉時雨が、まるで何かをかき消すように、狂ったように鳴り響いていた。




