婚約の証(2)
そこに書かれたサインを目にして、殿下は息を呑む。
まさかルドルフも、兄が己に不利な内容の書面に己の名を描くなど、思わなかったのだろう。
「わたしにとってリジェンタスは、敵国ではなくなるんだ。攻め入ったりなんて、しないよ?」
お姉様は義弟になるかもしれないルドルフの様子を目にして、面白くて仕方がないと言わんばかりに茶化す。
「だからあなたも、そんなに警戒しないでほしいな。ね? 義弟くん?」
その姿は、じこファンに登場したヒロインと本当に同一人物なのかと疑ってしまうほどに邪悪だ。
――まさかお姉様も、転生者なんて言わないよね……?
私が生きているだけで、これほど性格が変わるものなのだろうか……?
「急にお姉ちゃんが迎えに来て、お家に帰ろうなんて誘ったところで、混乱しちゃうよね」
「王女様……」
「あなたに、考える時間をあげる」
こちらが疑いの眼差しを向けていたところ、お姉様は猶予を与えてくれた。
「自らの足で、お姉ちゃんの胸に飛び込んでくるのを、待ってるから!」
それがいいのか、悪いのかはなんとも言えない。
「帰るよ、ラジェス!」
「かしこまりました~」
彼女は今すぐにフェドクスから私を奪い取りたい気持ちをぐっと堪え、ラジェスと一緒に窓から飛び降りて姿を消した。
その様子をじっと観察していたガザンは、慌てて窓の外を覗く。
彼らが地面に叩きつけられてしまったのではないかと、心配したようだ。
「おいおい。ここ、3階だぞ?」
「魔法使いにとっては、高さのある施設なんてなんの問題にもならないよ」
しかし、どれほど目を凝らしたところで、地上にヒロインたちの姿はなかった。
ルドルフの解説を受けたガザンは、彼らが入ってこられないように窓をしっかりと施錠したあと、疲弊の色を隠せぬ様子で肩を竦めた。
「なんつーか……」
「最悪の再会は免れたけど、状況は芳しくないね」
――ルドルフが微笑みを消しているなんて、珍しいな……。
それは作り笑顔を浮かべる余裕もないほど、精神的に追い込まれたと言うことに他ならない。
三英雄の中で一番、冷静沈着でいることの多い殿下が、態度に表すレベルなのだ。
私がかかわると冷静さを失う幼馴染が、黙っていられるはずもなく――。
「あの女……! 次に会った時は、絶対に殺す……!」
「お、落ち着いて……!」
「あんな下衆と、俺のエミリエが血の通った姉妹など、あり得ない……!」
彼は抑えていた怒りを爆発させ、ヒロインに対する憎悪を募らせた。
ルドルフとガザンが私を嫌わなくなって安堵したかと思ったら、今度はお姉様がみんなから嫌悪されるようになるなんて……。
――私がいなくても、彼女なら1人で彼らのハートを鷲掴めるような気がするけど……。
この様子だと、みんなから距離を置く作戦は、もう少し様子を見たほうがいいかもしれない……。
「苛立ってんなぁ」
「フェドクスの嫉妬は、同性にも適応されるんだね」
「ち、違います! フェドクスは出自や力不足を非難されたことに、腹を立てているだけです……!」
フェドクスの激怒している理由が、嫉妬からくるものだと思われるのは心外だ。
私が慌てて声を上げたところ、彼らは目を丸くしたあと、ガザンは納得した様子で幼馴染の背中をバシバシと叩いた。
「こいつが? 王女様に?」
「へぇ……。戦場を駆ける殺戮兵器なんて呼ばれていた、フェドクスを……?」
「そりゃ、キレるわ。あんたにとっては、ただの小娘だもんな!」
辺境伯はケラケラと笑っているが、小僧だと思われているのはフェドクスのほうだ。
年齢的にも、彼は年下だし……。
ヒロインはまだ、本気を出していなかった。
――足手まといの自分がいなかったら、どちらが勝つんだろう?
同じ魔法を扱うルドルフとならば、正々堂々とした勝負ができるだろうが……。
近距離戦が得意なフェドクスとは、どうやっても同条件とはいかない。
「けどよー。あの女、ガキの頃から結構強かったんだぜ?」
「お姉様の幼少期を、ご存じなのですか?」
「そりゃ、辺境伯は戦場に近いからな。あんたが攫われてすぐくらいか? 妹を返せって、大暴れしていたぜ」
幼馴染はどんな不利な状況であったとしても、私のためにならばすべてを投げ売ってでも勝利を掴み取る男だ。
彼が本気を出せるかどうかは、自分がどういう状況に置かれているかにかかっている。
それはどうやら、ヒロインも同じであったようだ。
「お姉様が……?」
「おう。護衛すらつけずに、デケェ魔法をぶっ放してやりたい放題しやがった。親父がすげぇ苦い顔して嫌がっていたから、よく覚えているぜ」
ガザンは昔を懐かしむように、ケラケラと笑いながら過去の出来事を語る。
どうやらほかの2人とは違って、お姉様を言うほど嫌悪していないらしい。
むしろ、彼女の実力を認めている。
「あんたが攫われなきゃ、今頃王女様の隣で、オレらと敵対していたかもしれねぇんだよな……」
――たった1人だけでも、ヒロイン
を敵対していない攻略対象がいるのは、幸いとも言うべきだ。
このまま2人の恋が原作通りに進展できるように応援しようと心に決めていたところ、もしもの可能性を指摘されて驚く。
随分と前に、フェドクスとそんな話をしていたからだ。
――思考回路が鏡写しのようにそっくりって話は、やっぱり本当なんだね……。
性別が違えど、自分がもう1人いるような錯覚に陥っていると、なぜか無言でワシャワシャと髪をかき混ぜられた。




