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第98話 束の間

 司法省の執務室。


 滝は机に積まれた書類へ視線を落としていた。


 先ほどまでの王城での騒動。


 あの場に満ちていた緊張と熱気を、無理やり仕事へ押し込めるように、黙々と書類へ目を通していく。


⸻


 だが。


 周囲の視線が妙に温かい。


⸻


「いやぁ……」


 コーナンが感心したように腕を組む。


⸻


「まさかヒカリー公と真正面からやり合ったとは」


⸻


「しかも、あそこから押し切るとは思いませんでした」


⸻


 向かいで書類を整理していたサカンまで苦笑している。


⸻


「普通なら、その場で首が飛んでもおかしくありません」


⸻


「いや、実際ちょっと飛びかけてただろ」


⸻


 滝が疲れた顔で返す。


⸻


 あの瞬間。


 ヒカリー公の怒気は本物だった。


 腰の剣へ伸びかけた手を思い出し、滝は小さく肩を竦める。


⸻


「それを止めたレイス様も見事でしたな」


⸻


 コーナンが感心したように続ける。


⸻


「完全に評判が上がっています」


⸻


「若い近衛や女官たちの間では、理想の貴公子だとか」


⸻


「もう噂になってるのか……」


⸻


 滝は呆れたように額を押さえた。


 王城の情報伝達は異常に早い。


 誰がどこで聞いていたのか分からない話まで、半日も経たず広まる。


⸻


「それにしても」


 コーナンがニヤリと笑う。


⸻


「いつご結婚されるのです?」


⸻


「憲兵隊でも皆噂しておりますよ」


⸻


「突然現れた外国人中佐が、王都一の美女を射止めたと」


⸻


 周囲の憲兵たちまで深く頷く。


⸻


「正直、羨ましいです」


⸻


「ミネー様みたいな美女、王都でもそうそういませんからね」


⸻


「おいおい、大人をからかうな」


⸻


 滝は苦笑しながら書類を閉じた。


⸻


「……まあ、あいつも待ってくれてるだろうが」


⸻


「今はそんなこと考えてる余裕はない」


⸻


「捜査を進めるぞ」


⸻


 先ほどまで王城で剣呑な空気の中にいたのだ。


 浮ついた気分になど、なれるはずもなかった。


⸻


 コーナンたちは顔を見合わせ、肩を竦める。


⸻


 ――その時だった。


⸻


 扉が軽く叩かれる。


⸻


「失礼します」


⸻


 入ってきたのはミネーだった。


⸻


 柔らかな笑み。


 艶のある黒髪を揺らしながら、両手には大きな籠を抱えている。


⸻


「皆様、お仕事中で大変でしょうから、お弁当をお持ちしました」


⸻


 一瞬で室内の空気が華やぐ。


⸻


「おお……!」


⸻


 若い憲兵たちが一斉に色めき立った。


⸻


 ミネーは慣れた手つきで弁当を配っていく。


 焼いた肉。


 香草の入ったパン。


 湯気の立つ小さなスープ壺。


 どれも食欲を刺激する香りだった。


⸻


 だが。


⸻


「……待て」


⸻


 滝の前へ置かれた弁当だけ、明らかに大きい。


⸻


 しかも中身が妙だった。


⸻


 山盛りの肉。


 山芋。


 香辛料たっぷりのスープ。


 さらに、弁当箱の奥には精力がつくとされる焼きトカゲまで入っている。

 しかも、大量に。


 滝は慌てて弁当箱の蓋を閉める。


⸻


「いや、これ完全に狙ってるだろ」


⸻


 思わず滝が呟く。


⸻


 ミネーはにこりと微笑んだ。


⸻


「タキ様は、お疲れでしょうから」


⸻


「しっかり力をつけていただかないと」


⸻


 一瞬の静寂。


 そして。


⸻


「ぶっ……!」


⸻


 周囲が一斉に吹き出した。


⸻


「なるほど」


⸻


「これは帰宅が楽しみですな」


⸻


「若い頃ならともかく、中年には重いですよこれは」


⸻


 コーナンとサカンが好き放題言う。


⸻


「お、おい」


⸻


 滝が止めようとするが、ミネーはどこ吹く風だった。


⸻


「では、お帰りをお待ちしております」


⸻


 柔らかく微笑み。


 愛想を振りまきながら、いそいそと部屋を出ていく。


⸻


 静寂。


⸻


 全員の視線が、滝の弁当に集まる。


⸻


「……」


⸻


 滝は絶句した。


⸻


 これは本当に弁当なのだろうか。


 ある種の圧力ではないだろうか。


⸻


「頑張ってください」


⸻


 コーナンが真顔で言う。


⸻


「何をだ」


⸻


「もちろん残業ですよ」


⸻


「黙れ」


⸻


 即答だった。


⸻


 だが室内には笑いが広がる。


 重苦しかった空気は、いつの間にか消えていた。


⸻


 ――その時だった。


⸻


 扉が勢いよく開く。


⸻


 入ってきたミヤーノの顔は険しかった。


⸻


 先ほどまでの和やかな空気が、一瞬で消える。


⸻


「……タキ殿」


⸻


 低い声。


⸻


「捜査に進展がありました」

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