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第95話 ふさわしい男

 滝たちは、静かな庭園を後にしていた。


 先頭を歩くコグシーの背中は、いつもより少しだけ重く見える。


 ミヤーノも無言だった。


 滝自身も、胸の奥に重い感覚を抱えている。



 皇帝は、ただ覚悟を示しただけではなかった。


 もし自分が倒れた場合のことまで、すでに決めていたのだ。



 ハギーを擁立し、現在の閣僚たちで国政を滞りなく進めること。


 それは、皇帝としてだけでなく、一人の父としての決断でもあった。


 そして――。



 もし、ハギーに皇帝の器がなかった場合。


 あるいは、執務を担えない場合。



 皇族の血を引き、若く、人望も厚い軍務卿ヒカリー公爵の息子――レイスを、次代の皇帝候補とする。



 コグシーは侍従長として、その言葉を正式に記録し、確かに承った。


 その姿は、長年この国を支えてきた老臣そのものだった。



 しばらく歩いた後。


 滝はふと疑問を口にする。



「ところで、なぜレイス殿なんです?」


「ヒカリー公では駄目なんですか?」



 コグシーとミヤーノが視線を交わした。


 答えたのはミヤーノだった。



「ヒカリー公は、陛下の従兄弟にあたる人物です」



 カンク十七世の父君の弟の子。


 さらに母親も王族の血を引く侯爵家の出身。


 家柄だけを見れば、極めて由緒正しい血統だった。



「一方で、現陛下の母君は男爵家のご出身です」



 滝は少し意外そうな顔をする。



「つまり、昔は揉めたってことですか」



「ええ」


 ミヤーノは静かに頷いた。



「先帝陛下が崩御された際には、ヒカリー公を推す声も少なくありませんでした」



 血統。


 家格。


 王族としての格式。



 確かに理屈だけなら、ヒカリー公に分があったのかもしれない。



「ですが」


 コグシーが静かに続ける。



「ヒカリー公ご自身も、ご自分の血筋に大きな誇りをお持ちでした」


「一方で、現陛下は民を思い、貴族だけでなく国全体を見ておられた」


「そのお人柄を見て、先帝陛下と貴族会議は現陛下をお選びになったのです」



 滝は何となく納得した。


 カンク十七世には、人を惹きつける何かがある。


 あの覚悟。


 責任感。


 そして、民を思う姿勢。


 血統だけで測れるものではない。



「もっとも」


 ミヤーノは少し表情を和らげた。



「即位後、大きな対立にはなりませんでした」



「ヒカリー公も現在では帝国を支える重臣です」



「ご子息のレイス様も、立派な青年皇族として育っておられます」



 滝は、昨夜のレイスを思い出す。


 真っ直ぐな目。


 堂々とした態度。


 そして、ミネーへの誠実な想い。



「……非の打ち所がない好青年ですよね」



 思わず口から漏れた。



 もし自分がミネーの父親なら、ああいう男を選ぶだろう。


 若く、将来有望で、家柄も申し分ない。



 それに比べ、自分はどうだ。



 四十五歳の中年刑事。


 一度、家庭を失った男。


 異世界に迷い込んだ、得体の知れない男だ。



 ――ミネーには、自分よりああいう男の方がふさわしいのかもしれない。



 それなのに。


 自分は、ミネーの気持ちに気づいていながら、何も答えようとしていない。


 事件を言い訳にして。


 危険だからと理由をつけて。


 好意を告げることも、その想いを受け止めることもしない。



 ――ただの意気地なしだ。



 前の妻の時も、そうだった。



 仕事を理由に向き合うことから逃げ続けた。


 気づけば、取り返しのつかないほど心は離れていた。



 そして今また、同じことを繰り返そうとしている。



 その時だった。



「ヒカリー公、どうかお声をお鎮めください!」



 突然、廊下の奥から慌てた声が響いた。



 三人が顔を上げる。



 声のした方へ向かうと――。



 そこには、困ったように眉を下げるハギーの姿があった。


 その隣では、ミネーが険しい表情で誰かと向き合っている。



 ただならぬ空気だった。

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