第68話 神の声
河川敷に、嫌な沈黙が落ちていた。
祈祷師の顔は引きつっている。
「……か、川の神は」
震える声。
「た、大変お喜びでございます……」
誰も反応しなかった。
村人たちも。
近衛兵も。
憲兵隊も。
ただ静かに祈祷師を見ている。
滝は無表情のまま口を開いた。
「……誰が聞いた?」
「え……?」
「今、“川の神は喜んでいる”と言ったな」
祈祷師の喉が鳴る。
「そ、それはもちろん、我ら祈祷師が……」
「なら話は早い」
滝は淡々と言った。
「直接、聞いてきてくれ」
一瞬。
祈祷師の顔から血の気が消えた。
「……は?」
滝は振り返る。
「コーナン」
若い憲兵将校が静かに敬礼した。
「はっ」
「川の神の使いを、丁重にお送りしろ」
その瞬間。
憲兵たちが一斉に動いた。
「なっ!? ま、待っ――!」
祈祷師の身体へ縄が巻かれる。
腰。
胴。
肩。
逃げられないように。
「き、貴様ら! 無礼であるぞ!!」
「我は川の神に仕える――」
滝が穏やかに笑った。
「安心しろ」
「これほど長年、熱心に供物を捧げてきた貴殿だ」
「川の神も歓迎してくださるだろう」
祈祷師の顔が引きつる。
「い、いや……それは……!」
ユダが無言で縄を引いた。
次の瞬間。
「ぎゃああああっ!!」
巨体が川へ落ちた。
盛大な水音。
祈祷師は水面でもがいた。
「ぶっ!? ごぼっ!! た、助け――!!」
必死に手を振る。
だが美しく泳ぐどころではない。
ただ無様に沈み、暴れているだけだった。
滝は静かに見下ろしていた。
(……まあ、服を着たままじゃ泳げん)
刑事時代。
水死体も、溺死事故も何度も見てきた。
衣服は水を吸い、動きを奪う。
まして。
(あの体格じゃなおさらだ)
祈祷師は太っていた。
脂肪と濡れた服でまともに身動きが取れていない。
川岸では村人たちが呆然としている。
「……え?」
「あれが……?」
「神の使い……?」
誰かが呟いた。
今まで絶対の存在だった。
神と話せる男。
洪水を鎮める男。
その男が今、鼻水を垂らしながら必死に縄へしがみついている。
恐怖より先に、“現実”が見え始めていた。
「た、助けてぇぇぇ!!」
憲兵たちが縄を引く。
祈祷師は半泣きになりながら岸へ転がり戻った。
全身ずぶ濡れ。
息を荒げ。
威厳など跡形もない。
その時だった。
ハギーが静かに滝を呼んだ。
「滝」
「はい」
ハギーは困ったように首を傾げる。
「ですが……」
「これほどの供物、本当に毎年必要なのか、わたくし気になってしまいましたわ」
滝は深く頷いた。
「ごもっともです」
そして再び祈祷師へ向き直る。
「聞いてきてくれ」
祈祷師が青ざめた。
「ま、またぁ!?」
その時だった。
コグシーが静かに付き人たちへ視線を向ける。
「長く仕えている方々なのだろう?」
付き人たちが硬直する。
コグシーは穏やかな口調のまま続けた。
「でしたら、共に神のお言葉を聞く栄誉を賜るべきではないか」
「――なあ?」
付き人たちの顔が引きつった。
「い、いや……その……!」
滝が即座に片膝をつく。
「はっ」
「侍従長閣下の仰せのままに」
次の瞬間。
憲兵たちが付き人にも縄をかけた。
「ま、待っ――!」
「いやあああっ!!」
数秒後。
再び大きな水音が響いた。
川では祈祷師と付き人たちが折り重なるようにもがいている。
誰一人、神秘的ではない。
ただ必死だった。
村人たちの間から、戸惑い混じりの笑い声が漏れ始める。
「……川の神?」
「いや……ただ溺れてるだけじゃ……」
「毎年、あれに……」
そして。
憲兵が縄を引き、全員を岸へ引き上げた。
祈祷師は咳き込みながら地面へ伏す。
滝が見下ろす。
「で」
「川の神は何と?」
祈祷師は震えていた。
周囲の視線が突き刺さる。
もう誤魔化せない。
「……く、供物は……」
掠れた声。
「も、もう……必要ない、と……」
滝が眉をひそめた。
「聞こえんな」
祈祷師が顔を上げる。
滝は冷たく言った。
「殿下や村人全員に聞こえるように申し上げろ」
「川の神は、何と仰った?」
祈祷師の唇が震える。
だが。
憲兵たちの視線。
村人たちの目。
コグシーの静かな微笑み。
逃げ場はなかった。
祈祷師は半泣きのまま叫ぶ。
「か、川の神は!!」
「も、もう供物は必要ないと仰せですぅ!!」
一瞬の静寂。
そして。
「おおっ!!」
「本当か!?」
「供物がいらねえ!?」
村人たちの歓声が河川敷に広がった。
泣き出す女。
抱き合う老人。
膝から崩れ落ちる村長。
ヒラカは呆然と立ち尽くしていた。
オオトが震える声で呟く。
「……姉ちゃん」
「今年、パン食える……?」
ヒラカの目から涙が落ちた。
その時だった。
遠くから、新たな馬車の音が響く。
ガラガラ、と重い車輪。
河川敷へ近づいてくる。
滝が目を細めた。
コーナンも表情を変える。
王家の紋章ではない。
黒い旗。
見慣れぬ紋章。
そして。
馬車の周囲には、武装した護衛たち。
河川敷の空気が再び張り詰めた。




