第64話 川の祈り
夜。
滝が部屋で荷物を整理していると、扉が静かに叩かれた。
「……どうぞ」
扉を開けたのはヒラカだった。
隣にはオオトもいる。
二人とも緊張した顔をしていた。
ヒラカは両手で、小さな布袋を握っている。
「昼間はありがとうございました」
彼女は深く頭を下げた。
「ですが、これはお返しします」
布袋の中には、ハギーが渡した銀貨が入っていた。
ハギーが驚いた顔をする。
「受け取ってくださいませ」
「……いいえ」
ヒラカは首を振った。
「お金は必要です」
「母の薬代も、冬支度も足りません」
そこまで言ってから、隣のオオトを見る。
「でも、弟が盗みをして、お金を貰ってしまったら」
「また同じことをします」
オオトが俯く。
静かな声だった。
だが覚悟があった。
「悪いのはオオトです」
「ちゃんと叱りました」
「だから、これは受け取れません」
ハギーは少し俯き、小さく息を吐いた。
「……配慮が足りませんでしたわ」
「申し訳ありません」
ヒラカが慌てる。
「そ、そんな!」
「助けたい気持ちだけで動いてしまいましたわ」
ハギーは少し寂しそうに笑った。
「それでは駄目なのですね」
ミネーが静かに口を開く。
「でしたら、お礼を別の形にしませんか?」
「別の……形?」
「ええ」
ミネーは柔らかく微笑む。
「私たち、この村のことをもっと知りたいんです」
「旅の途中で立ち寄ったばかりですから」
「もしよろしければ、ご一緒に夕食でも」
ヒラカは戸惑っていた。
だが漂ってくる煮込みの香りに、小さく喉が鳴る。
ハギーは聞こえなかったふりをした。
「お話のお礼に、お代はこちらで持ちますわ」
しばらく俯いていたヒラカは――
やがて小さく頷いた。
その隣で、オオトも小さく頭を下げた。
◆
食堂には、煮込みの香りと暖炉の熱が満ちていた。
昼間より客は少ない。
旅人が数人、静かに酒を飲んでいるだけだった。
ヒラカとオオトは、どこか落ち着かなさそうに椅子へ座る。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですわ」
ハギーが柔らかく笑う。
「取って食べたりしませんもの」
オオトが少しだけ吹き出した。
ヒラカが慌てて頭を下げる。
「す、すみません!」
「ふふ、謝らなくてよろしいのですよ」
運ばれてきたスープを前にすると、オオトの目の色が変わった。
肉が入っている。
香草の匂いも強い。
宿の主人が気を利かせたのか、普段より良い具材を使っているらしかった。
「冷めますわ」
ミネーが優しく促す。
オオトは一瞬ヒラカを見た。
ヒラカが小さく頷く。
その途端、少年は夢中でパンを頬張り始めた。
滝は黙ってその様子を見ていた。
ヒラカは恥ずかしそうに頭を下げる。
「すみません……最近、あまり食べられてなくて」
「やっぱり貧しいのか」
滝が静かに聞く。
ヒラカは少し迷い――やがて小さく息を吐いた。
「……この村は、不作ではないんです」
ユダが眉をひそめる。
「畑は確かに育っていたな」
「はい」
ヒラカは頷いた。
「今年はむしろ豊作です」
「なのに皆、苦しそうだった」
滝の言葉に、ヒラカは俯く。
「全部、“川の祈り”のためです」
窓の外。
夜のキンリュウ川が、月明かりを反射していた。
「昔、この村は大洪水に襲われたそうです」
「戦争が終わった直後でした」
「川が氾濫して、畑も家も流されて……たくさん人が死んだって」
食堂の空気が静かになる。
「その時、“川の神の使い”を名乗る祈祷師様が現れたんです」
「祈りを捧げたことで、洪水は収まったと」
「それ以来、毎年、神様へ供物を捧げて祈祷を続けています」
「そのおかげで、川は穏やかなままだって」
ミネーが静かに尋ねる。
「供物というのは?」
「お金や作物です」
ヒラカの声が少し小さくなる。
「今年は特に多くて……」
「だから皆、生活が苦しいんです」
ハギーが眉を寄せた。
「村長は止めないのですか?」
「……逆らえません」
ヒラカは苦笑する。
「もし祈祷を止めて洪水が起きたら、“村長のせいだ”って言われますから」
「祈祷師様たちは、“村を守っている”って」
その時だった。
黙って聞いていたコグシーが静かに口を開く。
「……それは祈祷のおかげではない」
ヒラカが顔を上げる。
「え?」
「戦後、陛下の勅命でキンリュウ川の大規模な治水工事が行われた」
「洪水が減ったのは、その成果だ」
ヒラカの目が揺れる。
「そ、そんな……初めて聞きました」
「ここは下流だ」
コグシーは淡々と続ける。
「知らなくても無理はない」
「だが祈祷師たちは知っているはずだ」
静寂。
そして――
滝が低く呟いた。
「……典型的だな」
全員の視線が向く。
「恐怖を利用して金を集める」
「詐欺師のやり方だ」
「でも、自主的な信仰なら法に触れない」
ヒラカの顔が青ざめる。
「そんな……祈祷師様が……?」
「人は、信じたいものを疑わない」
滝は静かに言った。
「特に、“怖いものから守ってくれる相手”ならな」
その時。
チリン――
鈴の音が、店の外から聞こえた。
宿の主人がびくりと肩を震わせる。
「あ……」
ヒラカの顔から血の気が引いた。
「祈祷師様たちだ……」
食堂の空気が、一瞬で凍り付いた。




