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第58話 傷の男

 西地区外れ――潰れた造船所。



 早朝。



 海風が冷たい。



 荷馬車の揺れに合わせ、木箱が小さく軋む。



 御者台のスミスは、落ち着かない様子で手綱を握っていた。



 「ほ、本当に大丈夫なんだろうな……」



 滝は荷台の陰で、淡々と言う。



 「今さら怖がるな」



 「ここまで来た時点で、お前はもう向こう側だ」




 スミスが青ざめる。



 サカンが低く笑った。



 「安心しろ」



 「死ぬ時は一緒だ」




 「安心できるか!」




 小声の怒鳴り。



 だが――



 少しだけ、緊張がほぐれる。



 やがて。



 古びた鉄門が見えた。

 

 武器を持った門番らしき男達が数名。


 崩れた外壁。



 海風に混じる、油と鉄の匂い。



 潰れた造船所。



 荷馬車は、そのまま門を通った。



 止められない。



 確認もない。



 あまりにも、自然に。



 コーナンが小さく呟く。



 「……拍子抜けですな」



 御者台のスミスが、小声で答える。



 「前は違ったんだ」



 「三ヶ月くらい前までは……毎回止められてた」



 滝が目だけ向ける。



 「誰にだ」




 「顔に傷のある初老の大男だよ」



 スミスが唾を飲む。



 「怖ぇ奴でさ……」



 「見張りもピリピリしてた」



 「荷物も全部確認されてたし……」



 一拍。



 「でも最近は、あいつ見なくなって」



 「配達も減った」



 「だから、みんな気が抜けてる」




 その瞬間。



 滝の目が、わずかに細くなる。



 脳裏に浮かぶ。



 夜。



 ハギー。



 誘拐未遂。



 そして――



 “警察”。




 あの男だけだった。



 この世界で初めて。



 滝を見て、


 “警察官”だと理解した男。



 顔の傷。



 初老の大男。



 偶然とは思えない。




 サカンが首を傾げる。



 「……何か引っかかったか?」




 コーナンも見る。



 だが――



 二人には繋がっていない。



 当然だった。



 あの場にいたのは滝だけだ。



 滝は短く答える。



 「……いや」



 「少しな」




 それ以上は言わない。



 まだ確証がない。



 だが――



 嫌な線が、一本繋がった。



 滝は小さく呟く。



 「人間らしい」




 「怖い上がいなくなる」



 「慣れる」



 「そうすると、警戒は緩む」




 刑事時代。



 何度も見た。



 事故。



 横領。



 手抜き。



 全部――



 “慣れ”から始まる。



 荷馬車が止まる。



 中では、見張りらしい男たちが雑に笑っていた。



 緊張感は薄い。



 油断。



 それが、空気に滲んでいる。



 滝は短く言う。



 「降りるぞ」



 サカンが、獣のような笑みを浮かべる。



 「待ってました」



 コーナンも静かに頷く。



 そして――



 三人は、荷馬車の陰から静かに動き出した。



 物陰へ滑り込む。



 サカンとコーナンは、そのまま周囲の警戒へ。



 滝だけが、別方向へ向かった。



 肩を落とす。



 歩幅を変える。



 目線を下げる。



 労務者。



 そこらにいる、使い潰される側の人間。



 そう見えるように。



 コーナンが小さく感心する。



 「……自然ですな」



 滝は振り返らない。



 「入り口で厳しくする場所はな」



 「一度中に入ると、逆に緩い」




 「中にいる奴は“仲間”だと思い込むからだ」




 サカンが鼻で笑う。



 「人間ってのは雑だな」




 滝は短く返す。



 「だから潜れる」




 造船所の中。



 広い。



 朽ちた船台。



 鉄材。



 古い機械。



 だが――



 奥には灯りがある。



 倉庫。



 工場。



 そして、人の気配。



 人気は少ない。



 だが、動いている。



 滝は堂々と歩く。



 すると。



 男の一人が怪訝そうに声をかけた。



 「おい、お前」



 「見ねえ顔だな」




 滝は面倒そうに頭をかく。



 「ジロウタさんからだよ」



 「様子見てこいってさ」




 その名前が出た瞬間。



 男の警戒が、少しだけ緩む。



 「……ああ?」



 「なんだ、そっちか」




 滝は自然に周囲を見る。



 「順調そうじゃねえか」




 男が鼻を鳴らす。



 「まあな」



 「ここも、もう終わりだし」




 滝の目が細くなる。



 「終わり?」




 男は気軽に続けた。



 「準備できたからよ」



 「人夫も職人も、もう連れてった」




 「例の旦那がな」




 滝の中で、空気が止まる。



 「……顔に傷のある男か?」




 男が怪訝そうに見る。



 「知ってんのか?」




 滝は適当に頷く。



 「噂くらいはな」




 男は気にせず続けた。



 「廃棄銃の修理も終わった」



 「火薬も食料も集めた」



 「後は向こう次第だ」




 向こう。



 どこだ。



 滝の思考が回る。



 その時。



 男が、何気なく言った。



 「で、今晩にはここも消す」




 「は?」




 滝が低く返す。



 男は笑った。



 「火事に見せかけて証拠隠滅だよ」



 「ついでに――」



 一拍。



 「スミスも処分」




 空気が、冷える。



 「口軽いらしいからな」




 滝の目が変わる。



 刑事の目。



 獲物を見る目。



 だが――



 まだ動かない。



 今は情報だ。



 全部、繋げる。



 滝は、ゆっくり息を吐いた。

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