第37話 詰みの椅子
早朝。
まだ陽も低い。
港の空気は、冷たい。
その静けさを――
踏み破る音。
「囲め!」
怒声が飛ぶ。
総督府の兵が、宿を取り囲む。
入口、裏口、窓。
逃げ道はすべて塞がれる。
「一人も逃がすな!」
総督自らが、先頭に立っていた。
顔には苛立ちが滲んでいる。
――昨夜。
報告を受けた。
繋がりかけた線。
嗅ぎ回る連中。
放置すれば、面倒になる。
だから――
先に潰す。
適当な罪を被せればいい。
それで終わる話だ。
扉の前に立つ。
「開けろ」
兵が頷く。
勢いよく扉が開かれる。
中へ――
踏み込む。
そして。
止まる。
誰もいない。
机も、椅子も、そのまま。
だが――
人の気配だけが、消えている。
「……どういうことだ」
低い声。
宿の主人が、震えながら答える。
「き、昨日の夜には……」
「皆さん、もう出て行かれまして……」
沈黙。
総督の目が、細くなる。
「逃げた、だと?」
誰も答えない。
空気が冷える。
「……探せ」
低く、押し殺した声。
「港でも、街でもいい」
「必ず見つけ出せ」
兵たちが動き出す。
その時――
「ご報告!」
伝令が駆け込んでくる。
息を切らしながら叫ぶ。
「監察官が――」
一瞬の間。
「総督府の監査に入ったとのことです!」
空気が止まる。
総督の顔から、血の気が引く。
「……は?」
理解が追いつかない。
「なぜ、今だ」
誰も答えられない。
だが――
嫌な予感だけが、確かにある。
「馬を出せ」
短く命じる。
外へ出る。
荒く鞍に跨る。
「戻るぞ!」
馬が駆ける。
石畳を打つ音が、やけに大きく響く。
胸の奥で、何かがざわつく。
理由は分からない。
だが――
落ち着かない。
総督府が見える。
門をくぐる。
兵が敬礼する。
それを無視して進む。
廊下。
いつもと同じはずの光景。
だが――
どこか、違う。
静かすぎる。
足音だけが響く。
自室の前に立つ。
扉。
一瞬だけ、手が止まる。
――何だ。
舌打ち。
そのまま、開ける。
中へ。
そして――
止まる。
自分の椅子。
その上に――
少女が、一人。
背を向けたまま、座っている。
肘掛けに腕を預け、
まるでここが自分の席であるかのように。
総督の喉が、わずかに鳴る。
「……誰だ」
低い声。
一拍。
少女が、ゆっくりと振り向く。
その顔を見た瞬間――
総督の思考が止まる。
(……なぜ、ここにいる)
認証式で見た顔。
忘れるはずがない。
皇帝に連なる側の人間。
一歩、後ずさる。
何かが、決定的に狂ったと分かる。
少女は何も言わない。
ただ、静かに見ている。
その視線だけで、逃げ道が消える。
総督の指先が、わずかに震える。
まだ何も告げられていない。
――それなのに。
終わりだけが、見えている。
言葉が、出ない。
理解だけが、積み上がる。
――終わりだ。
その事実だけが、
静かに突きつけられていた。




