第32話 見えない天井
総督府。
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重厚な扉の向こう。
磨かれた床。広い廊下。
静かだが――止まってはいない。
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紙の擦れる音。
短い報告。
低い命令。
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その一室。
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総督は、書類に目を落としていた。
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机の上には、判決文。
その横には、軍の報告。
さらに、商人の請願。
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一人で、すべてを裁いている。
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行政も、司法も。
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――皇帝直属。
政府の直轄地。
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その要職。
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「……ノオダの件か」
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興味の薄い声。
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机の向かいに立つのは――
連絡役の男。
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「はい」
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「処理は完了しております」
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総督は、書類をめくる。
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「騒ぎにはなっていないな」
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「問題ありません」
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間。
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「……ホウブの件は」
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総督が、ふと思い出したように言う。
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男の視線が、わずかに動く。
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「まだ、生きていると聞いています」
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「裁判までいったとか」
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総督は鼻で笑う。
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「面倒を残すな」
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「始末しろ」
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短い一言。
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「例の男にやらせろ」
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「スオーから来た――」
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書類を指で叩く。
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「日雇いの中年」
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興味もない口調。
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「終わったら、消せ」
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空気が、一瞬だけ冷える。
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男は、静かに答える。
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「承知しております」
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総督は、もう興味を失っている。
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書類に目を落とす。
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「末端がどうなろうと構わん」
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「流れが止まらなければいい」
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椅子に深くもたれかかる。
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「セキは要所だ」
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「ここでの実績は、そのまま中央への切符になる」
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口元が歪む。
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「……止めるわけにはいかん」
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私欲。
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だが――
それを隠す気もない。
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男は何も言わない。
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ただ、一礼する。
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「引き続き、処理します」
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「余計な騒ぎは起こすな」
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総督はそれだけ言う。
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男は部屋を出る。
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扉が閉まる。
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廊下。
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足音だけが響く。
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――その時。
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「……例の男か」
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柱の陰。
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影が、一つ。
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姿は見えない。
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声だけ。
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男は立ち止まらない。
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そのまま歩きながら答える。
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「ええ」
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「使えます」
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短い言葉。
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だが――
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「ただ」
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わずかに、間を置く。
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影が、興味を示す。
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「ただ?」
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男は続ける。
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「労働者にしては、動きが良すぎる」
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「視線も、無駄がない」
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「……あれは、場慣れしている」
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静かな分析。
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影が、わずかに笑う。
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「面白いな」
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「紛れ込んだ、か」
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男は否定しない。
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「可能性はあります」
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「だが――」
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一拍。
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「今は問題ありません」
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影が、低く笑う。
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「夢を見ている間は、扱いやすい」
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「総督も夢を見ている、か」
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軽い嘲り。
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男の口元が、わずかに歪む。
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「ええ」
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「今は――」
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言葉を切る。
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振り返らない。
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「そのままで」
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影は、それ以上何も言わない。
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気配が消える。
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男は歩き続ける。
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総督府の出口へ。
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その外。
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闇。
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ユダが、いる。
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完全な影。
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息も、気配もない。
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(……見ている)
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わずかに目を細める。
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今の会話。
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総督ではない。
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さらに上。
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そして――
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こちらも、見られている可能性。
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(……厄介だな)
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だが、動かない。
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男が通り過ぎる。
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気づかない。
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気づかせない。
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(……上がいる)
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確信。
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視線を上げる。
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総督府。
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その奥。
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見えない天井。
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(引きずり出す)
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静かに、息を吐く。
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そして――
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闇へ溶けた。
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報告のために。
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次に繋げるために。




