第149話 揺らぐ約束
オラヒの部屋。
扉は開け放たれ、室内では侍女ブセが掃除をしていた。
棚を丁寧に拭き、寝台の皺を整え、机の上を磨き上げている。
そのとき――。
コン、コン。
開いた扉が叩かれた。
「失礼する」
滝を先頭に、サカンとコーナンが部屋へ入る。
ブセは驚いたように振り返った。
「た、滝様……」
滝は室内を静かに見回す。
荷物は一つも残っていない。
寝台も机も整えられ、生活の跡がほとんど感じられなかった。
ブセは姿勢を正す。
「先ほどお話しした以上のことはございません」
その口調は、どこか素っ気なかった。
滝は部屋を見渡したまま口を開く。
「……綺麗ですね」
ブセが顔を上げる。
「え?」
「急に屋敷を辞めた者の部屋とは思えない」
滝は窓の縁を指先でなぞる。
埃一つない。
「まるで、屋敷を出る日が前から決まっていたようだ」
ブセの表情が固まる。
「そ、そんなことはありません!」
思わず声が大きくなる。
「わ、私が今、掃除したのです!」
滝は穏やかな口調のまま返した。
「この短時間で、ここまでですか」
ブセは言葉を失った。
目が左右へ泳ぐ。
持っていた布を握る手が、小さく震えていた。
その様子を見た滝は、小さく息をつく。
「あなたは、いい人だ」
ブセは目を見開いた。
「え……?」
「そして、嘘がつけない人だ」
滝は静かに続ける。
「手が震えている」
「目も泳いでいる」
「人は何かを隠しているとき、身体が先に反応することがある」
ブセは思わず両手を胸元へ抱えた。
顔を伏せる。
部屋が静まり返る。
やがて、小さな声が漏れた。
「……しかし」
滝は一歩だけ近づく。
「何か事情がありますね」
一拍置く。
「何か約束でもあったのではありませんか」
ブセの肩がぴくりと震えた。
滝は静かに問い掛ける。
「その約束は、本当に正しい方法だったのでしょうか」
返事はない。
ただ唇を強く結んでいる。
サカンが口を開いた。
「このまま黙っていても、クマー様は戻りません」
コーナンも続ける。
「私たちは責めたいわけではありません」
「どうか話してください」
しかしブセは首を横へ振った。
「申し訳ございません」
「これ以上、お話しすることはございません」
滝は静かに息を吐く。
「……ここまでか」
オラヒを追うしかない。
そう考えた、その時だった。
「失礼します」
柔らかな声が部屋へ響く。
全員が振り返る。
ハギーだった。
その後にはミネー。
一同は一斉に跪く。
ハギーは優しく微笑み、ブセの前まで歩み寄った。
「ブセ」
「あなたには年頃のお嬢さんがいましたね」
ブセは驚いたように顔を上げる。
「……はい」
「昔、こちらに遊びに来たとき」
「クマーと庭で一緒に遊んだことを、今でも覚えています」
ブセの表情が少しだけ和らいだ。
「懐かしゅうございます」
「殿下には、本当によくしていただきました」
「娘も元気に暮らしております」
ハギーは静かに頷く。
そして優しい声で尋ねた。
「では、お聞きします」
一瞬、間を置く。
「理由はどうあれ」
「親の知らないところで娘が突然いなくなったら……あなたはどう思いますか」
ブセは思わず顔を上げた。
「そんなことはありません!」
「娘はそんな子ではございません!」
強く言い返した、その瞬間。
ハギーは静かに頷いた。
「アブー侯爵様ご夫妻も、今、同じお気持ちでしょう」
その言葉に、ブセの表情が崩れる。
ハギーはさらに優しく続けた。
「もし」
「あなたのお嬢さんが、クマーと同じように突然姿を消したら」
「あなたは、どんな小さなことでも知りたいと思いませんか」
ブセの瞳から涙が溢れる。
「ですから……」
「どうか、もう一度考えてください」
「知っていることを、お聞かせください」
長い沈黙が流れた。
やがてブセは崩れるように跪く。
「……申し訳ございませんでした」
涙が床へ落ちる。
「もう……隠せません」
「本当のことを、お話しいたします」
ハギーは静かにしゃがみ込み、そっとハンカチでブセの涙を拭った。
「意地悪な質問をしました」
「許してください」
ブセは何度も首を横へ振る。
「いいえ……」
「ありがとうございます……」
滝はその光景を静かに見つめていた。
サカンが小さく呟く。
「我々が何を言っても動かなかった心を……」
コーナンも深く頷く。
「これが皇女殿下のお力なのですね」
滝は小さく笑みを浮かべた。
「人を動かすのは、理屈だけじゃない」
「相手の心に届く言葉だ」
静まり返った部屋の中で、ブセはゆっくりと顔を上げる。
そして――。
クマーが姿を消した日の、本当の出来事を語り始めた。




