第146話 もう一つの仮説
アブー侯爵家の墓前。
重苦しい沈黙が流れていた。
滝の言葉に、その場にいた全員が驚きを隠せない。
「自らの意思で姿を消した……ですか」
コーナンが思わず聞き返した。
滝は墓石から視線を離さない。
「あくまで可能性の一つだ」
「だが、最初から消す理由はない」
憲兵の一人が首をかしげる。
「しかし、侯爵令嬢ですよ」
「誘拐されたと考える方が自然ではありませんか」
滝は静かに頷いた。
「もちろん、その可能性もある」
「だが、現場はそれを裏付けていない」
全員の視線が集まる。
滝は周囲をゆっくり見渡した。
「確かに墓参りで一人になる」
「反政府組織でも、身代金目的の誘拐犯でも、狙うには絶好の機会だ」
一拍置く。
「だが、今回はハギー様の誘拐未遂とは状況が違う」
コーナンが頷いた。
「あの時は事前に綿密な計画が立てられていました」
「そうだ」
滝は続ける。
「今回は爆破事件が解決した直後だ」
「クマー嬢が墓参りへ行くことも、急に決まった話だろう」
「犯人が計画し、準備する時間はほとんどない」
サカンも腕を組む。
「確かに……」
滝は墓前を指さした。
「それに現場には争った跡がない」
「供花も倒れていない」
「複数人の足跡もない」
「人を一人さらうなら、少なくとも一人では難しい」
「状況によっては、複数人が必要になる」
滝は入口の方へ目を向けた。
「何らかの逃走手段も必要になる」
「だが、それを見た者はいない」
「道中にも目撃情報はない」
「柵にも侵入した形跡はない」
静まり返る。
誰も反論できなかった。
滝は静かに言う。
「だからこそ」
「自ら姿を消した可能性も考える」
コーナンがゆっくり息を吐いた。
「事件は思い込みが一番危険……でしたね」
滝は小さく頷く。
「そういうことだ」
一人の憲兵がおそるおそる尋ねる。
「では、どう捜査を進めればよいのでしょう」
滝は振り返った。
「まず、この事件の出発点を見直す」
「出発点……ですか」
「この捜査は、同行した使用人と侍女の証言から始まっている」
「ならば、もう一度最初から話を聞く」
「思い込みを捨ててな」
コーナンが頷く。
「分かりました」
滝はさらに続けた。
「それと、クマー嬢本人について調べる」
サカンが顔を上げる。
「本人、ですか」
「ああ」
「家族」
「使用人」
「友人」
「婚約話の有無」
「最近の様子」
「誰と会い、何を考え、何を悩んでいたのか」
一拍置く。
「人が姿を消すには理由がある」
「その理由を知らなければ、この事件は解けない」
コーナンは真剣な表情で敬礼した。
「直ちに使用人と侍女から再度事情を聴取します」
「クマー様の交友関係についても調査を始めます」
「頼む」
滝は墓石へ一度だけ目を向ける。
墓前には、供えられた花が静かに風に揺れていた。
滝は墓前に一礼した。
「行こう」
その一言で、一行は墓地を後にした。
向かう先は、アブー侯爵家。
侯爵令嬢クマーという、一人の女性の素顔を知るために。




