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第105話 帰る場所

 遅めの昼食を終えたあと、滝はミネーへ声を掛けた。


「よかったら、君の育った街を案内してくれないか」


「それに、これからの生活で必要な物も揃えておきたいしな」


「……はい!」


 ミネーはぱっと表情を明るくした。


 その笑顔を見ていると、自然とこちらまで頬が緩む。


 昨日、司法省で受け取った給金のことを思い出す。


 最初は受け取るつもりはなかった。


『いや、まだ正式な身分も曖昧ですし、ここまで世話にもなっています。給金など――』


 そう断ると、ミヤーノは静かに首を横へ振った。


『労働に対する正当な報酬です』


 さらに珍しく少しだけ笑みを浮かべる。


『それに、いつまでもコグシー家でタダ飯を食べるわけにもいきますまい』


 そこまで言われて、ようやく滝も革袋を受け取った。


 思えば、この数日の働きを考えれば遠慮する方が失礼なのだろう。


 冷静で、公平で、人を見る目がある。


 王都には伯爵以上の大貴族が並ぶ中、皇帝が子爵のミヤーノを司法卿へ抜擢した理由が、少し分かる気がした。


 出掛ける前、滝は警察の制服を脱いだ。


 胸に付いていた警部の階級章も、この世界で与えられた憲兵隊大佐の徽章も外す。


 今日は仕事を忘れたかった。


 ただ、一人の男として。


 ミネーと過ごしたかった。


⸻


「では、行きましょうか!」


 外着に着替えたミネーが、弾むような声で言った。


 いつもの給仕服ではない。


 淡い色の上着に長いスカート。


 髪も少しだけ結い方が違う。


 それだけで印象はずいぶん変わって見えた。


「似合ってるな」


「っ……!」


 ミネーの耳が赤く染まる。


「た、滝様は、そういうことを自然に言いますよね……」


「そうか?」


「そうです!」


 ぷい、と顔を背ける。


 それでも口元は嬉しそうに緩んでいた。


⸻


 二人は王都カスミの街へ出た。


 昼の大通りは活気に満ちている。


 露店から漂う香辛料の香り。


 焼き串の煙。


 行き交う人々の笑い声。


 荷車の軋む音。


「こちらは布屋です!」


「この先は細工物のお店が多いんですよ!」


「あっ、焼き菓子のお店もあります!」


 ミネーは嬉しそうに歩き回り、店を一つひとつ紹介していく。


「滝様、これどうでしょう!」


「この香辛料、保存が利くらしいです!」


「あ、このお皿、綺麗です!」


 気付けば滝の両手には荷物が増えていた。


「……増えてないか?」


「増えてます!」


「自信満々に言うことか……」


 だが、その笑顔を見ると悪い気はしない。


(こういう時間も悪くないな)


 日本にいた頃。


 仕事帰りに一人でコンビニへ寄り、惣菜を買って帰る。


 そんな毎日だった。


 誰かと並んで歩き、買い物袋を持たされる休日など、一度もなかった気がする。


⸻


「そういえば、父上からお使いを頼まれていました」


「コグシー殿から?」


「はい。本屋へ寄ってほしいと」


 案内されたのは、大通りに面した格式ある書店だった。


 重厚な木扉。


 革装丁の本が整然と並ぶ棚。


 役人や貴族らしき客も多い。


「頼まれていた本、入っていますか?」


 店主はにやりと笑った。


「おお、コグシー様のご注文ですな」


 差し出された本を見て、滝は思わず固まる。


『孫』


『子孫繁栄』


『子沢山』


「…………」


 一方、ミネーは顔を真っ赤にした。


「ち、違います! これは父上が勝手に……!」


「いや、俺に言われてもな」


 店主は満足そうに頷く。


「いやぁ、コグシー様も楽しみにされておりますな」


「だから違いますっ!」


 慌てるミネーを見ながら、滝は思わず苦笑した。


(……完全に遊ばれてるな)


 だが悪意は感じない。


 不器用な歓迎なのだろう。


「滝様!」


「ん?」


「忘れてください!」


「努力はする」


「絶対忘れてませんよね!?」


 二人は笑いながら店を後にした。


⸻


 その後も服屋や雑貨屋を巡る。


 店先の鏡に映った自分の姿を見て、滝は足を止めた。


 そこにいるのは憲兵隊大佐でも警察官でもない。


 荷物を抱えた、ごく普通の中年男だった。


 その隣には嬉しそうに笑うミネー。


 周囲の視線も感じる。


 王都でも目を引く美しい女性。


 その隣を歩く四十五歳の男。


 客観的に見れば、不釣り合いなのかもしれない。


 それでも。


(こんな中年親父に)


 ミネーは真っ直ぐ好意を向けてくれる。


 そのことが胸の奥を静かに温めた。


「滝様?」


「……いや」


 滝は小さく笑った。


「なんでもない」


⸻


 気付けば空は茜色に染まり始めていた。


「せっかくですし、最後に五連橋へ行きませんか?」


「五連橋?」


「はい。私が一番好きな場所なんです」


 二人は川沿いを歩く。


 やがて巨大な石橋が姿を現した。


 五つのアーチが夕日に照らされ、水面へ長い影を落としている。


「綺麗だな……」


「私も、この景色が大好きなんです」


 二人は欄干へ荷物を置き、並んで川を眺めた。


 風が頬を撫でる。


 静かな時間が流れる。


⸻


「……信じられないだろうが」


 滝がぽつりと口を開く。


「元の世界にも、同じ橋があった」


 ミネーは何も言わず耳を傾ける。


「俺はそこから、この世界へ来た」


 夕日に照らされた川面が揺れる。


 ミネーは静かに頷いた。


「……私は信じます」


「信じるのか?」


「はい。この橋には昔から、不思議な伝説がありますから」


 そう言って荷物から一冊の本を取り出した。


「本屋で見つけたんです。五連橋について書かれた本で……もしかしたら、滝様が元の世界へ帰れる方法が――」


 本を開こうとした、その時だった。


 滝はそっと本へ手を添え、静かに閉じた。


「滝様……?」


 滝は穏やかに首を横へ振る。


「もう必要ない」


「え……?」


 少しだけ空を見上げる。


 夕日に染まる空。


 橋。


 川。


 そして隣にはミネーがいる。


 滝はゆっくりミネーへ向き直る。


「たとえ今までの人生を捨てることになっても構わない」


 真っ直ぐその瞳を見る。


「ここが、俺の帰る場所だから」


 ミネーの瞳が揺れた。


 滝は少し照れたように笑う。


「こんな中年親父でよければ――」


 一拍置く。


「俺と結婚してほしい」


 ミネーの目に涙が浮かぶ。


 それでも、その顔は幸せそうに笑っていた。


「……はい」


 声が震える。


「喜んで」


 夕日が二人を優しく照らす。


 ゆっくりと距離が縮まっていく。


 だが、その瞬間。


「……あっ」


 ふらり、とミネーの身体が傾いた。


「ミネー!?」


 滝は慌てて抱き留める。


 腕の中のミネーは苦しそうに息を吐いた。


 顔色が見る見る青ざめていく。


「おい、どうした!?」


 滝の表情から、一瞬で笑みが消えた。

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