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第101話 一杯

 王都南部、市場地区。


⸻


 夕日が市場地区を赤く染め始めていた。


 昼間まで響いていた喧騒も、少しずつ静まりつつある。


⸻


「駄目です!」


⸻


 若い憲兵が息を切らせながら戻ってきた。


 「川沿いも住宅街も探しましたが、該当する魚売りは見つかりません!」


⸻


 さらに別方向へ向かった憲兵も首を振る。


 「こちらも同じです」


 「行商人自体は何人もいましたが、皆『知らない』の一点張りで……」


⸻


 コーナンが額を押さえた。


 「……おかしい」


 「市場周辺を虱潰しに探しても出てこないとは……」


⸻


 滝は露店が片付けられていく様子を眺め、小さく息を吐いた。


 「魚屋はもう帰ったんだろ」


⸻


 コーナンが首を傾げる。


 「はい?」


⸻


 「魚は朝が勝負だ」


 「売れ残れば鮮度が落ちる」


 「午後まで市場に残る魚売りは少ない」


⸻


 コーナンは市場を見回した。


 確かに、魚屋の姿はほとんど消えている。


 残っているのは、生物を扱わない露店ばかりだった。


⸻


 滝は顎に手を当てる。


 「なら逆だ」


 「朝の魚市場を狙う」


 「魚屋は必ず集まる」


⸻


 コーナンの表情が明るくなった。


 「なるほど……!」


⸻


 「それと、ジンにもう一度話を聞く」


 「実際に市場へ連れて行って」


 「『あの声だった』と確認してもらう」


 「伝聞より、記憶を刺激した方が早い」


⸻


 コーナンは力強く頷いた。


 「では明朝、魚市場を封鎖しますか?」


⸻


 滝は首を横へ振る。


 「いや」


 「そこまでやると相手が警戒する」


 「普通の客として市場へ入る」


 「声を聞かせて絞り込む」


⸻


 少し考え、静かに締めくくる。


 「今日は動いても空振りだ」


 「勝負は明日の朝だな」


⸻


 滝は踵を返した。


 「司法省へ戻るぞ」


⸻


 本当は今日は早く帰るつもりだった。


 ミネーと夕食を囲み、少しでも長く話をしたかった。


 ようやく互いの気持ちを確かめ合えたばかりなのに、今日も一日捜査に追われてしまった。


⸻


 ――だが。


⸻


 司法省、憲兵隊執務室。


⸻


 扉を開けた瞬間だった。


⸻


 「おおっ!」


 「大佐殿が戻ったぞ!」


⸻


 「結婚祝い持ってきました!」


 「酒だ! 酒!」


⸻


 どっと憲兵たちが押し寄せてくる。


⸻


 滝は思わず足を止めた。


 執務室は、いつの間にか宴会場になっていた。


⸻


 机の上には酒瓶が何本も並び、


 焼いた肉、


 香草料理、


 魚の干物、


 どこから持ち込んだのか分からない巨大なチーズまで置かれている。


⸻


 「……なんだこれ」


⸻


 さらに。


⸻


 「私からも祝いの酒です」


⸻


 ミヤーノが年季の入った陶器瓶を机へ置いた。


⸻


 周囲の憲兵たちがざわつく。


 「おお……」


 「それ、かなり高い酒では……」


⸻


 ミヤーノは真顔で言う。


 「祝い事ですからな」


 「人の好意は受け取るべきでしょう」


⸻


 「いや、俺は今日は帰る予定で――」


⸻


 「一杯だけで結構です」


⸻


 滝は苦笑した。


 「……一杯だけだからな」


⸻


 ――それが失敗だった。


⸻


 「大佐!」


 「異国の捜査ってどんな感じなんです!?」


⸻


 「本当に凶悪犯を素手で捕まえるんですか!?」


⸻


 「毒殺事件ってあるんですか!?」


⸻


 若い憲兵たちが次々と集まってくる。


⸻


 滝は酒を口に運びながら答えた。


 「毒殺は大抵、身内だ」


⸻


 一瞬静まり返り、


 次の瞬間、


⸻


 「夢がねえなぁ!」


⸻


 執務室が爆笑に包まれた。


⸻


 さらに一人の若い憲兵が真顔で尋ねる。


 「異国の警察は恋愛禁止なんですか?」


⸻


 滝は思わず吹き出した。


 「そんな訳あるか」


 「忙しくて恋愛する暇がないだけだ」


⸻


 また笑いが起こる。


⸻


 サカンはすでに顔を真っ赤にしていた。


 「私は最初からタキ殿は大物だと思ってましたよぉ!」


⸻


 「お前、最初は散々警戒してただろ」


⸻


 「それはそれ!」


 「これはこれです!」


⸻


 コーナンは呆れたように酒を飲む。


⸻


 「つまみが足りませんな!」


⸻


 酔ったサカンが机を漁り始めた。


⸻


 「おい、勝手に触るな」


⸻


 「何か食べる物は……」


 「あっ!」


 「弁当がありますぞ!」


⸻


 「やめろ」


⸻


 しかし遅かった。


 サカンが蓋を開ける。


⸻


 「……何ですこれは」


 「山芋?」


⸻


 「焼きトカゲですな」


⸻


 一瞬、静寂。


⸻


 そして。


⸻


 「ぶはっ!」


⸻


 「何で弁当に焼きトカゲが入ってるんですか!」


⸻


 「ミネー様、本気ですな!」


⸻


 執務室は再び笑いに包まれた。


⸻


 滝は額を押さえる。


 「……放っておけ」


⸻


 「いや、これは無理でしょう!」


⸻


 笑い声はさらに大きくなる。


⸻


 気が付けば、滝自身も笑っていた。


⸻


 こんなふうに酒を酌み交わすのは、いつ以来だっただろう。


 気の合う仲間たち。


 事件の愚痴。


 若い憲兵たちの熱意。


 他愛もない馬鹿話。


⸻


 悪くない。


⸻


 いや――


 かなり楽しかった。


⸻


 「大佐ぁ!」


 「飲んでますかー!」


⸻


 「次はミヤーノ殿の酒いきましょう!」


⸻


 「サカン殿、もう潰れてます!」


⸻


 笑い声が執務室に響く。


 次々と注がれる酒。


 尽きない会話。


⸻


 気が付けば、滝の視界はぼんやりと霞んでいた。


⸻


 「……一杯だけじゃ、なかったな……」


⸻


 そのまま机へ突っ伏す。


⸻


 遠くで誰かが笑っている。


⸻


 そして――


⸻


 滝が次に目を覚ました時。


⸻


 窓の外は、すでに白み始めていた。

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