4.“勇者”という呪縛
正直に告白するのなら、もう“勇者を演じなくて良い”と分かった時、アニア・ゴールドは何とも言えない解放感を覚えた。
もちろん、突然収入を断たれてしまった事も職場を離れなくてはいけない事もショックだったし、自分は悪くないとはいえ、多くの人々の期待を裏切る結果になってしまって心苦しくもあったのだが、それでも、重圧からの解放感の方が強かったのだ。
“勇者である自分”にプレッシャーを感じているという自覚はあったのだが、そこまでとは彼女は思っていなかった。
彼女が“勇者”という肩書に居心地の悪さを感じるのも、“勇者である自分”に期待を抱く人達と距離を置きたがるのも、恐らくその所為なのだろう。
勇者を解任されて、アパートに引っ越した時、彼女は勇者という立場から離れて新しい人生を歩めるものだと思っていた。
が、どうも“勇者”という肩書は、そんなに簡単に逃れられるほど甘いものではなかったらしい。
勇者という肩書の所為で職を見つけるのも一苦労だし、街を歩いてるだけで気付かれて注目をされてしまったりもする。その視線を気にしている訳でもないのだが、なんとなく彼女は“勇者に相応しい服装を”と、普段着にも制服のような堅めの服を選んでしまう。本当はもっと可愛い服が好きなのに。
もっと不穏なエピソードもある。
何処のどんな組織なのかは不明だが、どうも彼女は監視をされてしまっているようなのだった。
気の所為ではない。
実際、彼女は自分を監視している犯人を何度か取り押さえているのだ。……もっとも、その後で例外なく逃げられてしまっているのだが。
アニアはベッドから億劫そうに立ち上がると、上着を脱いで楽な恰好になり、夕食を作ろうと台所に向かった。手の込んだ料理を作る気力はない。ドライフルーツを少し、パンにベーコンを挟んで卵を焼く。軽めの食事。ただ、何か水以外の飲み物も欲しくなり、少しくらいは贅沢をしても良いかと外に出た。アパートの前の通りでミルクを買えるのだ。
が、少し歩いたところで、彼女は怪しい気配を感じた。目の前の路地裏の先に、何者かの気配がある。
魔力を集中し、イメージの中で視界を飛ばす。明瞭には把握できないが、大きな男の姿があった。動かない。
こんな時間にこんな場所で、明らかに普通ではない。それに強い魔力を隠せてもいない。人間でここまで強い魔力を持つ者は稀だ。軽く緊張をしているようにも思える。
自分を待ち伏せしているのかもしれない。いいや、仮に他の誰かがターゲットであっても捨て置けはしない。
護身用の小さな銃を彼女は常に携帯している。殺傷力は小さいが脅しには充分だし荷物にもならない。なにより可愛いので気に入っている。上着の下にあるそれを軽くなぞって存在を確認すると、彼女は勢いよく飛び出した。
角を曲がると、イメージ通りに男の姿があった。予め把握しておいた位置にある腕を取ると、彼女は身体全体を捻って関節技を極める。
「イテテテテ!」
取り押さえられた男は悲鳴を上げた。
「おいおい! 何なんだ、あんたは?」
その抗議の声を誤魔化す為だと判断した彼女は「とぼけても無駄です。こんな場所で何をやっていたのです?」と強く言う。
「何をしてたって、単なる待ち合わせだよ。これからダチと飲むんだ。勘弁してくれよ!」
「路地裏で待ち合わせをする人が何処にいますか? それにあなたからは強い魔力の気配を感じます。魔法を使いますね?」
「魔力? ああ、魔力は強いって言われた事があるな。でも、それだけだ。魔法なんか使えないよ」
「下手な言い逃れです!」
そう言って彼女は取った腕に体重を強くかけた。すると男は更に高く悲鳴を上げた。
「いてぇー! おい!やめてくれ! 本当に痛いんだよぉぉぉ!」
その悲鳴が彼女の予想よりも大きかったことで、彼女は不安を覚える。もしかしたら、本当に自分の勘違いなのかもしれない。そう弱気になると、無意識の内に彼女は腕の力を弱めていた。
男はその一瞬の隙を見逃さない。
突然、激しく身体を回転させると彼女の技を振り解き、一目散に路地裏の奥に消えていってしまった。
通常の人間の力ではなかったし通常の人間の身のこなしでも足の速さでもなかった。恐らく、魔法で身体能力をブーストさせたのだ。明らかに特殊な訓練を受けている。一般人ではない。
つまり、彼女の勘は当たっていたのだ。男は彼女を待ち伏せしていたのだろう。
「また、逃がしちゃった……」
男が消えていった先を見やりながら、アニアは頭を抱える。
これではまた警察にも信じてもらえないだろう。通報しても相手にしてもらえないに違いない。
……実は、毎回ほぼ同じような展開で、彼女は怪しい人物を逃してしまっているのだった。
彼女が落ち込んでいると「ナー」という鳴き声が足元から聞こえた。見るとそこにはいつの間にか、彼女の愛しい“動くぬいぐるみ”のナイがやって来ていた。
「ナイ!」
ナイは「ナー、ナー」としつこく彼女の足を掻いている。その様子からナイが自分を心配していると思った彼女は、
「大丈夫よ、ナイ。油断したのはあの人に私を傷つける気がないと分かっているからなんだから」
と言ってナイを抱え上げた。
彼女は“甘すぎる”と自分でも思っていながら、相手の悲鳴を聞くと、つい力を緩めてしまうのだ。
……本当に自分は、心底勇者には向いていない。
そう、アニアは思ったりした。
自分を監視したがる組織や人物に彼女は心当たりがまるでなかった。
女権拡張論者達は、まだ勇者としての彼女に期待をしているようだったが、もし何か要望があるのならば隠れたりせずに堂々と言って来るだろう。そういう人達だ。
最も考えられるのは、「魔王を打ち倒す運命を持っている」という占術の結果を信じた魔族の依頼を受けているという可能性だが、もしそうならば、悠長に監視したりせず彼女の命を狙いそうなものだ。彼女が発見した怪しい人間達は、今のところ、決して彼女に危害を加えようとはしない。
――もしかしたら、失踪した魔王フルムス・クルブスが関わっているのかもしれない。
無根拠だったが、そんな風に彼女は想像をした。
数度しか会ってはいないが、いかにも彼らしいやり口に思えたのだ。自分の性質を見抜いている彼は、逃げる手段を監視役に教えているのかもしれない。
ミルクを店で買って帰り、家で夕食を済ませると、彼女はお風呂に入ってからベッドに寝転んだ。
もう眠っても大丈夫だ。
だが、疲れているはずなのに、何故か眠気はやって来なかった。先ほどの“怪しい男”の所為で興奮してしまっているのかもしれない。
或いは、無自覚なだけで、自分はとても怖がっているのかも。
そんな彼女を慰めるようにナイが「ナー」と鳴いた。
「ありがとう」
と言って、彼女はそんなナイを軽く撫でる。
そこで彼女は魔王クルブスの姿を思い浮かべた。ナイをプレゼントしてくれたのが彼だったからだろう。
何故か彼は、矢鱈と自分に好意的だった。何らかの策略なのか、それとも単にからかっていただけなのかは分からないが。
彼は今、行方不明だ。
――大丈夫なのかしら?
ふと、そう思う。
自然と彼を心配する言葉が思い浮かんだ事に彼女は自分でも少し驚いていた。
和平を結んだのは、何らかの策略の一端。そんな不安はある。だがそれでも、そんな策略の外に彼はいるのではないか? そして、何かの謀略に巻き込まれて、始末されてしまった…… だから、行方不明。
もっとも、その発想に彼女はあまりリアリティを感じられなかった。
彼は無事でいる気がする。
根拠はないのだが。
さっき自分を待ち伏せしていた男は分かり易かった。もっと隠密行動に特化した者ならば自分に察知する事はできないだろう。もしかしたら今も監視されているのかもしれない。
誰かに観られていると想像すると、俄かに彼女を恐怖心が襲った。
うら若き乙女が、こんなにも怯えているというのに、どうして誰も助けてくれないのだろう?
やっぱり、勇者だからダメなのかな?
何しろ、“勇気ある者”だし。
彼女は少し泣きそうになっていた。
……少しも、勇気なんかないのに。
それからようやく彼女はまどろみ始めた。夢かどうかも分からない空想の中で、魔王フルムス・クルブスが現れ、あの日の穏やかな笑顔で彼女を護っていた。
目を閉じた彼女の傍らにはナイが寄り添い、そんな彼女を少しでも温めるように身体をくっつけていた。




