中編
「ちょっと行ってきます」と言って、本当に出かけて行ったハルト様を今か今かと待ち侘びた。
知らない世界なのに、1人で行かせてしまってもよかったんだろうか。
ついて行った方がよかったのではなかろうか。
でも、私が一緒に行ったところで拗れてしまうだろうし…。
それに、ハルト様は、帰ってくるのだろうか。
そんなことを考え出したら、私の分の仕事が手につかなくなってしまった。
この家に嫁いできて、私の存在意義は『嫁としての仕事をこなすこと』だけだったのに、その手が止まってしまうなんて。
ハルト様にも怒られてしまうかもしれないのに、なかなか手が動かなかった。
そうやって1人困っている間に、ハルト様の帰りを知らせる声がした。
飛び出すように出迎えに行くと、相変わらず困った顔のハルト様がいた。
「どうされたのですか、その頬…!」
私は思わず駆け寄って、その頬に手を伸ばしかけた。
ハルト様の左頬は、赤くなっていた。
少しだけ引っ掻き傷のようなものがあって、爪が当たったみたいだった。
「いや〜、難航して、最後にはぶたれちゃって…」
「早く冷やすものを…!」
「あはは、ごめんね。もうちょっと上手くできたらよかったのにね」
私に謝っているところを見て、使用人が世界の終わりかのような顔をしていたが、今はそれどころではないので、冷やすものを持ってくるように指示を出す。
「大丈夫なのですか…?」
「うん、平気。それに無事解決したし、これで済んだならいい方でしょ」
あっけらかんとしているハルト様に、こちらの方がハラハラしてしまう。
「さて、じゃあ今日の分の仕事をしてしまおう。ノエル、手伝ってもらってもいい?」
「少しお休みになられた方が…」
ジークハルト相手だったら、とっくの昔にこんなことも言わなくなっていた。
あの人は、私に気遣われるのを心底嫌がっていたから。
だけれど、ハルト様相手だと、再びその言葉が出てしまう。
「ありがとう、でも大丈夫だよ。明日からお城に出勤?しないといけないっぽいから、家のことは今日中に目を通しておきたいんだ。頼めるかな?」
赤い頬が傾いて、私の顔を覗き込んでいた。
そこまで言われたら、私のやるべきことはひとつだ。
「もちろんです。如何様にもお使いください」
「ははっ、ノエルは物じゃないんだから。そんな言い方しないでよ。よろしくね」
それだけ言うと、ハルト様の足が執務室へ向かったので、一瞬迷ったけれど、その後ろをついていったのだった。
「仕事の方はいかがでしたか…?」
「ギリギリなんとかなったかなぁ。ジークハルトが優秀すぎて、追いつくのが大変だけど」
翌日、城から帰ってきたハルト様はケロリとしていた。
昨日の領地の話や家のことなど、少し説明すれば「ああ、そういうことか!」と元のジークハルトの記憶と繋がっていくようで、特に何か決定的に抜けていることなどなどなかった。
それに、ハルト様自体も勤勉のように感じる。
きっと必要なのは最初だけで、そのうち私が手伝うこともなくなるのだと思う。
「ノエルは、今日は何してたの?」
「え?」
今日もジークハルトの私室で人払いしながらの会話だったけれど、私は質問に固まってしまった。
ただひたすら、ジークハルトを見た。
目の色も、背丈も、顔も、何も変わっていない人。
だけれど、表情は柔らかいし、目元が優しい。
この人は、どんな人なんだろう。
「ノエル?」
「あっ、はい…。いえ、特には」
「ノエルは普段ジークハルトの仕事の手伝い以外は、何をして過ごしているの?」
「…何か不都合でもございましたでしょうか?」
不安になって質問に質問で返してしまう。
この人といると、調子が狂う。
こんなことをしたら、ジークハルトにイライラされるだけだ。
そうやってイラつかせることを数えて、細心の注意を払って回避してきたことたちが、全部ひっくり返ったかのように言動に出てしまう。
本来なら、私が心配すること自体嫌がられることなのに…。
「えっ、あー、ジークハルトの記憶を見ても、ノエルのことはあまりわからないから、ただ知りたいなって思っただけなんだけれど、ごめんね?もしかして、ノエルの方が不都合だった?」
この人は、私相手にすぐ謝る。
1人の人として、私を見つめてくる。
……やめてほしい。
「…いえ、大したことはしておりません。今日は、少し孤児院に顔を出してきました」
ジークハルト相手なら、言わない。
でも、たぶん、ハルト様は報告が聞きたいんだと思う。
だから、口に出してみた。
「そうなんだ。孤児院は、管轄内のだよね?ジークハルトが何かしていた記憶はないんだけど」
「私の仕事の分ですから」
「そうか。…今度、僕も行ってみてもいい?」
「清潔にはしてますが、貴族が行くような場所には整えられていませんので…」
「ん?ノエルは行けているんでしょ?じゃあ、大丈夫じゃないかな」
「そうですか…」
「うん、子どもは好きだし、遊び相手ぐらいにはなれると思うよ」
そう言ってはにかむハルト様は、眩しくて。
「……私も、子どもは好きです」
今まで言ってこなかった気持ちをポロリと零したが、ハルト様はただ笑ってくれるだけだった。
「夜会、怖すぎ…」
「大丈夫ですか?」
はじめて『ハルト』として夜会に参加中なのだが、私をパートナーにして、今は壁際で休んでいるところだ。
アルコールの入っていない炭酸を手渡すと、ぐびぐび飲み始めた。
一緒に生活するようになってわかったことは、ジークハルトと違って、ハルトはお酒に弱いようだった。
「なんとか。そろそろ表情筋が死にそう…、ジークハルトのことはじめて尊敬したよ。彼、すごいね」
「ええ、人のいる場面では完璧でしたから」
「僕は1人じゃ無理…。ノエルがそばにいてくれてよかった」
こういうことをサラリと言うところも、ジークハルトとは違う。
ジークハルトの生活も慣れるまでに時間がかかったが、ハルトとの生活もいまだに慣れない。
私が戸惑っても、激昂は飛んでこない。
だからこそ、私は気が緩んでいるのかもしれない。
早く慣れないといけないのに、うまく自分をコントロールできずにいる。
それを、ハルトに咎められたことは一度もない。
「……お役に立っているなら、よかったです」
「いつも助かってます、ありがとうね」
「いえ」
私は今日のドレスの裾を見て、不思議な気持ちになる。
今日は、ハルトが選んだ装いをしている。
「えっ、こういう時ってパートナーと同じものを着るんじゃないの?」
「ハルト様のいたところは、そうだったのですか?」
「僕のいたところに、夜会なんてものそもそもなかったよ。まあ、僕の知識も偏っているからなぁ」
という会話があって、私は「ハルト様のお好きにするのがいいと思います」と進言した。
すると、ジークハルトとお揃いの色のドレスを着ることになった。
結婚当初に、当時作らせたものの中で使用人が気を利かせていくつか用意したお揃いのものは、これまで一度だって袖を通したことがなかった。
だというのに、今日あっさり着る機会がきてしまった。
変な感じだ、どうしていいのかわからなくて、気持ちを持て余している。
「それにしても、ジークハルトってモテすぎじゃない?既婚者にもアピールするって普通なの?」
「どうでしょう。おモテになる方に未婚も既婚も関係ないような」
「へえ〜、こりゃまた僕からしたら生きにくい世界だね。試練ってこれのことかねぇ」
ハルト様はくすくす笑いながら、残りの炭酸を飲み切った。
「ノエル、よかったら僕と一曲踊ってくれませんか?」
「私でよろしいのでしょうか?」
「他の人だったら、踊れないよ。…ジークハルトの記憶を頼りにするだけだから、下手だったらごめんね」
「それはハルト様が謝ることではありません」
すぐに謝るこの人に、謝らなくていいと言う機会も増えた。
その度に、ハルト様は可笑しそうに笑う。
「じゃあ、よろしくお願いします」
今までの夜会だって、ジークハルトと踊ってきた。
彼は必ず私と一曲踊って、役目を果たしたとばかりに私のそばを離れていく。
それでいて、頃合いに戻ってきて、妻のそばにずっといましたよ?という顔をして振る舞っていた。
ご婦人方にはよく「本当にあなたの旦那様は素敵ね」とお褒め頂いたことだ。
だけれど、今日の『ジークハルト』は本当にずっと私のそばにいる。
他のところに行くなんてまだ気が持たないのだろうけど、それでも私を一番に優先してもらったと錯覚するくらいには優しかった。
「ハルト様、本当にはじめて踊るのですか?」
「一応、レッスンは一回受けたけど…」
「それでも、お上手です」
私は口角を上げて、ハルト様のリードで踊っていく。
実のところ、ジークハルトに比べたらぎこちなかったのだが、その手はいつもより熱かった。
この方、本当にもうジークハルトではないのね。
繋いだ手から、踊り方から、私が一番恐れていた人物ではないと伝わってくる。
それが、嬉しいと、思ってしまったのだった。
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