前編
夫のジークハルトが朝食に出たにんじんを食べているのを見て、私は凝視してしまった。
この人、誰だろう…?
夫のことで知っていることは、数えるほどしかない。
私のことが嫌いだということ。
仕事が第一であり、その次は投資、その次が領地経営と優先順位が明確なこと。
私との子を作りたくないから、跡継ぎは親戚から養子をもらおうとしていること。
日差しが嫌いなこと。
にんじんが嫌いだということ。
私でも知っていることなのに、今日の夫は私の目の前で『にんじん』を食べていた。
小さい頃、馬が食べているのを見て以来、同じものなど食えるかと味まで受け付けなくなったと言って、私が夕飯の献立ににんじんを入れてしまった時にはすごく激怒していたというのに。
普段なら料理長を呼んで、いい加減にしろと怒鳴りつけていただろうに。
どういう心境の変化だろうか。
いつもだったら、それくらいでも声はかけなかったと思う。
ただ、にんじんをきっかけに夫の様子を観察しながら朝食をとっていると、どうにも違和感が増すばかりだった。
まず、私との食事の時間なのに、イライラしていない。
不機嫌な時は、わざと貧乏ゆすりをするくらいなのに、今日は嫌味のひとつも飛んでこない。
使用人へのあたりも、そこまでキツくないように感じた。
朝は寝不足でイライラしていることが多いのに、今日は穏やかに見えた。
何より、私がチラチラ見ていると言うのに、煙たがったりすることなく黙々とご飯を食べていた。
舌打ちもなければ、睨まれることもなかった。
おかしい…、風邪でも引かれたのだろうか。
そう思って、食事を終えて廊下に出た夫に、必要事項以外で久しぶりに声をかけた。
「あの、旦那様…?」
私の声に足を止めてゆっくりと振り返ると、戸惑ったように返事が返ってきた。
「……ああ、どうかしたかい?」
この人、旦那様じゃない。
直感的に、そう思った。
「あの、大変申し上げにくいのですが」
「うん」
「貴方様は、誰ですか…?」
迂闊にもそう言ってしまって、夫の手が動いたのが見えて殴られると思ったのだが、その手は私に届くことなく自分の頭を掻いていた。
「やっぱり、気づきますよね…?」
困ったように笑うその人は、見た目は夫なのに知らない誰かだった。
「あなたは、このジークハルトさん…の奥様ですよね?」
ひとまず他の人のいないところで話すことになって、夫の私室へと招かれた。
この部屋に入ったのは、嫁いできてからはじめてだった。
夫と2人きりになることなどあまりにもないから、今頃使用人がどうしたものかと思っているんじゃないかと不安になる。
「はい、妻のノエルと申します」
「ノエルさん、はじめまして…、と言われても意味がわかりませんよね?僕もあまりよくわかっていないのですが」
また頭を掻く目の前の夫に、見た目はもちろんジークハルトなのだが、仕草が違うだけでこんなに別人に見えるのかと余計なことを考えた。
「ノエルさんがおっしゃる通り、僕はジークハルトさんではありません。…いえ、正式には今日からジークハルトのようなのですが」
うーんと腕を組んで、眉を八の字にしていて、不機嫌そうではないことには安心した。
「何から説明したらいいんだろう。えっとですね、昨夜夢を見たんです。この世界の女神だと名乗る方とジークハルトさん本人がいました」
柔らかい声で、私相手に敬語を使うから少々驚いたが、話の腰を折るわけにもいかずただ頷いて次を待った。
「女神様曰く、幾つもの世界が存在しているんだそうです。それはまあ本当だと思います。僕がいた世界は、ここではないので」
……異なる世界からやってきた、と?
そんなことありえるのかしらと思っている自分と、あまりにも夫が違う人なのであるのだろうと思えている自分の両方がいた。
「その別世界には、自分と同じ魂の分裂がいるそうです。別々の世界に存在しているから、交わることはないそうなのですが、…僕はジークハルトさんを見た時、僕がいると思いました。鏡で映したかのように容姿がそっくりでした」
「……旦那様と同じ魂」
「はい、交わらないはずだけど、例外もあるそうで…」
何とも申し訳なさそうに話す彼を見て、普段の夫と違いすぎて、気持ち悪さすら覚える。
具合が悪いわけでもないのに、吐き気がした。
「時々、女神様が試練を与える人間というものがいるみたいで、どうやらそれに『僕ら』は選ばれたみたいです」
「……試練、が、今目の前にいることと何か関係があるのですね?」
「はい。魂の器を入れ替えて、生きろとのことでした」
その説明は不十分ではあるが、今起こっていることを見れば、魂の居場所を強制的に替えられたんだろうと思えた。
「どうしてそのようになったのか、お分かりですか?」
「その、女神様は相当お怒りでして、ジークハルトさんに少しは根性を叩き直せと言われていました」
「旦那様が怒られていたんですか…?」
「はい。傍若無人がすぎるから、知らない土地で反省しろとおっしゃってましたね。ジークハルトさんはめちゃくちゃ怒鳴っていましたよ…」
それはそうだろう、夫が怒りに任せて怒声をあげているところは、容易に想像がつく。
まあ、今回に関しては女神からの理不尽なのだから、怒りも正当な気がするけど…。
「それで、まあ、目が覚めたら『ジークハルトさん』になっていたというわけです」
「それは、ご苦労様でした」
「あはは、ありがとうございます」
困った顔をしながら、笑っているこの人はどういう人なんだろうと不思議に思ってくる。
お礼なんて言われたから、一瞬言葉に詰まってしまった。
「貴方様は、何か言われなかったのですか?」
「あー、『お前に咎はないのに、巻き込んですまん』と女神様に言われましたね」
「そう、なのですか?」
「世界の交換は同じ魂しかできないみたいで、たまたま僕だったみたいです」
自分の身にとんでもないことが起こっているというのに、焦ったり、怒ったりしていない様子が、何とも奇妙に見えてくる。
どこかに行ってしまったらしい夫は、今頃大丈夫なんだろうか。
「夫は、…異なる世界に行った方は、戻ってくるのでしょうか?」
「いいえ、ずっとこのままみたいです」
「それは…、大変でしたね」
そうは言われても、私もどうしたらいいのかわからない。
確かに夫はいい夫ではなかったが、仕事はできる人だったし、貴族としての誇りを持っていた。
そして、誰よりも外面のいい、他人から見たら『とても素敵な夫』だった。
この方は、ジークハルトになり得るのだろうか。
「えっと…、貴方様のお名前を訊いてもよろしいでしょうか?」
「あっ、ハルトと言います」
「ハルト様…」
「いや、『様』なんてつけられるような…、あっそっか、こっちではそれが普通でしたね」
また困ったようにうーんと唸っているハルト様に、私は首を傾げた。
「こちらの世界のことは、ご存知なのですか?」
「魂が入れ替わっただけで、本人の記憶は残っているんですよね。それが今の僕の中にあるので、ある程度はわかりますよ」
「『ジークハルト』の記憶をご存知と…?」
「ええ。仕事のこととか、家のこととかもわかるので、生活そのものに支障はない気がします。あとは、生きてみないとわかりませんが」
そう言って、また頭を掻くので、これはハルト様の癖なのかもしれない。
あの人の記憶がある…、だったら私が疎まれていたこともご存知ということですね。
この人にも、私はまたいない者のように扱われるんだろうか。
「という感じなんですが、僕、ここにいても大丈夫ですかね?」
「え…?」
「いきなり知らない奴がいてもご迷惑になると思うんですが、置いておいてもらえますか?追い出されないような働きはきちんとしますので」
「お、追い出すなんて、旦那様にそんなことはできませんっ。貴方様が嫌だとおっしゃるなら、出ていくのは私の方です…!」
慌ててしまって、大きい声が出てしまった。
それなのに、ハルト様は咎めるどころか、両手を振って優しい声で言った。
「いやいや、余所者は僕だし。ノエルさんはこの家のお嫁さんでしょう?あなたの居場所こそ、ここではありませんか」
なんで、そんなことを言うんだろうか。
貴方は、ジークハルトの記憶を見たんじゃないんですか。
「…この家の主は、ジークハルト・イズセムです。ですので、貴方様がいてくださらないと、困ってしまいます…」
情けない声でボソボソとそう言うと、ハルト様は眉を垂れさせながら笑った。
「でしたら、お世話かけますが、どうぞこれからよろしくお願いします」
その笑顔は、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
「仕事は出勤するとして、領地経営はやったことがないんですよねぇ。ノエルさんはいつもサポートしてくださっていますよね?」
サポートという言葉が、胸に引っかかった。
「お手伝い程度ですね…」
「では、お手間をかけますが、引き続きお願いしてもいいですか?それで、記憶ではわからないところを教えてくださると助かります」
「わかりました」
「それと、僕の中身が別人なのは伏せておきましょう」
「ハルト様がそうおっしゃるなら」
「きっと変わりすぎだとバレバレだとは思うんですが、使用人の人たちや他の人たちを混乱させてもいいことはない気がしますので」
「かしこまりました、そのように致します」
「ありがとうございます、ノエルさん。…これって、呼び捨ての方がいいですか?」
自信無さげに私の顔を見てくるので、意見を求められていると気づくのに、時間がかかった。
「あ、はい…!妻を『さん付け』する方はいませんね」
「そうですよねぇ〜…、う〜ん呼び捨て苦手なんだけどなぁ。…では、ノエル、で」
「はい、そうしていただけると助かります」
「了解です。他に何かありますでしょうか?」
「いいえ、私の方は特には」
「そうですか。…では、僕からもう一つだけいいでしょうか?」
急に表情が曇ったのが見えて、ドキッとした。
やっぱり何か怒らせるようなことをしてしまったかしら。
「……すごく言いにくいんですけど」
「はい」
「ノエルは、ジークハルトの愛人については何かご存知だったりしますか…?」
申し訳なさそうな声と表情が、私に響いた気がする。
それ以上に、目の前が真っ暗になるようだった。
そうか…、あの人には、外に恋人がいたのね。
私が嫌いだからといって、そこまでしているとは思っていなかった。
「いいえ、知りませんでした」
「あー、じゃあ余計なことを言いましたね、ごめんなさい!」
「ハルト様のせいじゃ…」
「で、今からその彼女のところに行ってこようと思うんですけど、いいでしょうか?」
その女性に興味がおありなのかしら。
「ええ、私が何か口を挟むようなことはありませんから」
「本当ですか?じゃあ、関係を精算してきても大丈夫そうですね」
「…えっ」
「え?愛人なんていらないですし、困りますし、別れてこようと思うのですが」
あまりにもまっすぐ言われたから、聞き間違いかと思った。
「そう、ですか」
「どの世界も何人相手がいてもいい人がいるのかもしれませんが、僕としてはなしなので。さくっと終わらせてきますね」
そう言って笑顔を見せるから、こちらが拍子抜けしてしまう。
ハルト様は1人がいいのね…。
それは元いた場所に、そういう方がいたのかもしれない。
その人は、ハルト様にたった1人想われて幸せだったのかしら…。
「すぐ帰ってきますから、そんなに心配そうな顔しないで?」
私が不機嫌そうに見えたのか、ハルト様は優しくそう言った。
こんなふうに、夫から言われたことなどない。
本当にこの人は、ジークハルトではないジークハルトなんだと、腑に落ちた気がした。
「旦那様が、ご苦労をおかけします」
「ははっ、本当にね。あの人、あっちの世界で生きていけてるか、僕ですらちょっと心配」
冗談のように言いながら、肩を竦めたハルト様に、私は自然と肩の力が抜けるのだった。
お読みくださりありがとうございました!!
毎日投稿197日目。
(短編のつもりが分けました、最近このパターン多いなぁ。)




