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ある日の朝、夫の中身が違っていることに気がつきました。今はとても平穏です。  作者: 有梨束


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3/3

後編

「本当に来てくださるとは思っていませんでした…」

「どうして?僕、行きたいって言ってたよね?」

「はい。ですが、ジークハルトは絶対に嫌がっていたので」

私がそう言うと、ハルト様は「あー…」と頭を掻いた。


今日は仕事が休みの日だというのに、ハルト様は一緒に孤児院に来ていた。


ハルト様がジークハルトになってからというものの、使用人たちは不審がっていたが、今では「改心されたのでは…?」というふうに思っているようだった。

周囲の人からも「以前より雰囲気が柔らかくなった」と言われるくらいで済んでいる。


人当たりがよくなったからか、良い方向へと勝手に解釈してくれて助かっている。


誰も中身が入れ替わったなどと、突飛な発想にはならないのだろう。


にんじんだけで気づいた、私の方がおかしかったのかもしれない。



それは、そうよね。

必要なこと以外で彼の視界に入らないように、気をつけていたんだから。

それは、誰よりも彼を観察していたとも言う。


そのおかげで、ハルト様をこの世界でひとりぼっちにせずに済んだとするなら、私のやっていたことには意味があったのかもしれない。


ただ、私はハルト様の何の役にも立っていないけれど…。



「ここの運営費はうちから出ているんだよね?」

「はい、前々代の当主様がお作りになって以来、管理と運営を行なっております」

「…『私』は、それを嫌がっていたと」

「偽善は気持ち悪いと、以前言っていましたね」


2人の間で、ルールのようなものができた。


以前までいた本来の私の夫ジークハルトの話を指す時は、ハルト様はジークハルトの一人称だった『私』と言うようになった。


これで他の人の前で多少話しても、気にならなくなった。


「全く、正直すぎる男だねぇ…」

ハルト様は苦笑いしながら、孤児院の門をくぐっていく。


その隣を歩いていく。



「でも、解体は命じたことないんだね」

「そうですね…、言われてみればそうです、ね」

「そこは貴族の矜持の天秤が勝ったかな」

院長が玄関前で待っているのが見えて、ハルト様はパリッとした笑顔に早変わりした。


こういうところは、ジークハルトに似ている。


挨拶すると、はじめてジークハルトが訪問するから、院長はだいぶ緊張している様子だった。

それは、子どもたちも同じだった。


「あ、…ノエル様、こんにちは。えっと」

「こんにちは。この方は…」


『夫』と紹介してもいいのだろうか。


「僕はジークハルトと言います、こんにちは」

「こ、こんにちは」

「今日はノエルと一緒に来たんだけど、よかったら僕とも遊んでくれるかな?」

その言葉に、子どもたちはおずおずしながらも、目を輝かせていた。


私も相手をすると言っても、本を読んだり刺繍を教えたりする程度だ。


彼はどうするのだろうかと思っていると、1人の男の子をヒョイッと肩車した。


「高〜いっ!」

「ははは、怖くないかい?」

「全然っ!ジークハルト様、すっげえ〜!」

「ぼくもっ、ぼくも!」

「おれもしてほしい!」

「いいよ、順番な」

あっという間に子どもたちに囲まれて、あっさり庭に出て行ってしまった。


子ども慣れしているようで、すっかり人気者になっていた。


「旦那様は、子どもと遊ばれるような方だったんですね…」

あまりのことについてきていた侍女が口を滑らせたくらい、不思議な光景に見えた。


「ノエル様、ジークハルト様かっこいいね!」

「…そうですね」

「かっこいい旦那様だと、ノエル様も幸せなの?」

「え?」

「だって、前に読んでくれた絵本の中では、『結婚して、いつまでも幸せになりましたとさ』って書いてあったよ!」


女の子たちが目をキラキラさせながら訊いてくるから、否定できなかった。


でも、何て答えればいいのかわからなくて困っていると、向こうから名前を呼ばれた。


「ノエル、ごめん。着替えって持ってきていたっけ?」

当の本人に声をかけられて振り返ると、なぜか泥だらけのジークハルトが頭を掻いていた。


「なっ、どうされたんですか!?」

「え?遊んでいただけだよ?」

ハルト様の周りにいる子どもたちも、ニーッと笑っている。


「ジークハルト様、すっごいの!足が速くて、すぐ捕まっちゃうの!」

「あーあ、子どもたちまで泥だらけではありませんか…。ここには風呂場もないのに」

「シャワーもないの?」

「あるにはありますが、水ですし」

「そっかぁ、じゃあ湯床を作った方がいいね」

そう言いながら、庭にある水場をホースを見つけて、泥だらけの子供達を連れて行ってしまう。


「ほらっ、水浴びして綺麗にしよ〜!」

「風邪引きますよっ」

「大丈夫、今日はあったかいし」

ニコニコされながらそう言われたら、何も言い返せない。


以前の私には言い返すという選択肢はなかったはずなのに、この人相手だと会話ができるともう知っている。


「タ、タオルをもらってきます…!」


私は自分の質問への返答をすることなく、部屋の中へと入っていった。


ずるい大人だ…。


ハルト様は、ジークハルトにならざるを得なくて、ここにいるしかないのに。


私は唇をギュッと噛み締めることしかできなかった。





その日の夜、目が覚めてしまって、私は廊下を歩いていた。

寝室は結婚初日から別々だから、ジークハルトに知られることもない。


元のジークハルトがいた時から、時々こうして夜中に廊下を歩いていた。


眠れない日、反省が頭の中を回ってうるさい日、怒鳴られて怯えた日。

そういう日はジークハルトが寝室に入ったのを見計って、隙を見て、歩き回った。

使用人はそんな私の行動を察しているから、今更何か言われたりしない。


はじめて真夜中に廊下を歩いた時、執事長に心配されたことを思い出す。

私は曖昧に笑って、「大丈夫です」としか言えなかった。


そういえば、ハルト様が来てからは、はじめてだったかもしれない。


この時間なら、談話室の窓が一番月が綺麗に見えるはずだ。


なんとなく足がそちらに向いていく。



ジークハルトは、きちんと生活できているのだろうか。

ハルト様は貴族ではなかったと言っていたから、今頃苦労しているのではないか。


それとも、私と離れられて清々しているのかしら。


むしろ、よかったと思っているかもしれない。


それならいいのにと思ってしまう自分がいる。



彼もそう思ってくれていたら、私もそう思えるのに、と。


自分だけいい環境になっていることに、罪悪感を覚え始めている。



ハルト様は、いつまで私と一緒にいてくださるのだろう。


そんなことを思っているうちに談話室についていて、部屋の扉を開けた。


「…っ」

「あ、ハルト様…、すみません。ノックもせずに」


そこには先客がいて、窓の近くにハルト様が立っていた。


月明かりに照らされたハルト様は、普段とは違う儚い雰囲気に、無意識に後ずさった。


「帰って、しまわれるのですか…?」


ハルト様が消えてしまうように、私には見えた。


行かないでほしい、ジークハルトに帰ってきてほしくない…!



「ははっ、女神様曰く交換は一度きりだそうから、帰ったりしないよ」

乾いた笑い声が返ってきて、私は胸が締め付けられた。


余計なことを言ってしまった。


そんな悲しい声をさせたかったわけではないのに。


自分の欲を優先させた。

ジークハルトには二度と会わなくて済むなら、私はホッとする。

だからといって、ハルト様にそれを押し付けるのは違う。


そばにも行けないし、今更言ったことを取り消せない。



「私…」

「ノエルはどうしたの?眠れない?」

「目が、覚めてしまって…」

「そっか。そんなところに立っていないで、こっちに来たら?何か用があったんでしょう?」

「いえ…、お邪魔して申し訳ありませんでした」

「ノエル」


ハルト様の声が怖いくらいに響いて、私は部屋からも出られなくなった。


「よかったら、こっちに来てくれないかな」

「お一人で過ごされたかったのでは…?」

「んー、どうだろ。わかんないや」

はっきりものを言わないから、私もなんて返していいのかわからない。


ジークハルトは、ある意味わかりやすかった。

悪意というのは、明確に見分けられるものだったのかもしれない。


ハルト様は、わからないことだらけだ。


扉を閉めて、ゆっくりと窓際に近づいていく。


彼と向かい合う形で、近くまでやってきた。


窓のそばでもそこそこ暗いけれど、表情は見て取れた。

悲しそうな顔はしていなかった。

だけれど、今まで見た中で一番生気のない顔をしていた。


「具合でも悪いですか?」

「ううん、そんなことないよ」

「では、私の発言が不快にさせましたか?」

「違うよ、ノエルのせいじゃなくて、…今日のことを思い出していたんだ」

そう言って、ハルト様は窓の方に視線を戻した。


その目が何を映しているのか。


ハルト様の目には、月は綺麗に見えているだろうか。


「…僕ね、元いた世界に甥っ子がいたんだ。姉の子でね、とても可愛がっていたんだよね。それこそ、今日みたいに馬鹿騒ぎして、一緒に遊んだりしてさ」

「……」

「僕、本当に帰れないんだよねぇ」

そう零した一言がずしりと重くて、胸が痛くなった。


「最初はさ、ここに慣れなきゃなって。ノエルもよくしてくれているし、使用人のみんなもよく働いてくれているし、それに見合うように頑張らなきゃって思ってたんだけど」

頭を掻いたハルト様は俯いて、空を見るのをやめた。


その背中が、急に小さく見えた。


「それって、僕のしなきゃいけないことことなのかなって、わからなくなっちゃった」

私の方を向いたハルト様は、ポロリと涙を零した。


私は息が詰まりそうだった。


「…本当は、ずっと怖かったんだ」


ポロポロと一粒一粒が真珠玉のように、床へと落ちていく。


それを見ていることしかできない自分が嫌になる。


ジークハルトだったら、私の前で弱みを見せたりしない。



「帰れないことも、ジークハルトとして生きることも、元の世界の僕もことも。怖くて仕方なくて、見ないふりしてただけなんだ…」

「ハルト、様…」

「様なんて呼ばれるような人間でもないんだよ」

「……あ」

「僕は、ジークハルトの居場所を奪ってここにいることが苦しいよ」


背中に月を背負っているからか、輪郭を通った涙が光っていた。


私は口を開いて、何も言えなくて、また閉じた。


その間もハルト様は自分の胸を掴んで、心の叫び声を声に出した。


「僕はもう誰とも会えないし、元の世界のみんなにも認識してもらえないっ…!僕は、僕じゃなくなっていくみたいだ!」

「……」

「もう本当は全部嫌だよ、僕は1人になりたくないよっ…!」


その言葉に、私はグッと一歩前に出ていた。

それから、自分でも驚くほどの大きな声が出た。


「私がいます…!ハルト様はここにいてくださるだけでいいです!」

「ノエル…?」

「家のことをやりたくないのなら、私が全部引き受けます。お仕事だって辞めたっていいです。好きになさってくれたら、いいのです…!だから、ここからいなくならないでください」


つらつらと言葉が出ていって、止まらなかった。


ハルト様は何度も瞬きをしながら、きょとんとした顔で私を見ている。



「あなたがいてくれたら、私はこの家で息ができます。怒鳴られることもなければ、怯えなくてもいい。そんな人、ハルト様だけです…。お願いです、私とでは嫌かもしれませんが、ここにいてください…」

私の方が泣きそうになって、言い切ったら、どれだけハルトという存在に心を救われてきたかを自覚して、私は項垂れた。


私にとって、ジークハルトと代わってくれたことは、幸運だったと言っていい。


死ぬまであの人の怯えていく未来だって、あったはずなのだ。


それを女神の試練などという理不尽によって、私の人生に光が差した。


だったら、今度は私が何かに応える番だ。


「あなたがここにいやすいように、私が取り計らいます。ですから、あの…」

「ふふふっ、ノエルって大きい声出せたんだね」

笑っている声に顔を上げると、泣き笑いしたハルト様と目が合った。


「えっと、今、そこなのですか…?」

「はじめて聞いたよ、きっとジークハルトも聞いたことないんじゃない?」

「…あの人の前では、緊張して、小さい声しか出なかったので」

「そうか、じゃあ僕は気を許してもらえているんだね…」

それだけ言うと、ハルト様の方から近づいてきて、距離が縮まった。


泣いたままのハルト様の方が小声で、私の顔色を窺っているようだった。


「ノエル、頼みがあるんだ」

「はい、なんなりと」

「肩を貸してくれないかな」


言われた意味はわからなかったが、すぐに頷いた。


ハルト様は、「ふっ」と息を漏らすように口元を緩めて、そのまま私の肩に顔を埋めた。


びっくりして体が跳ねたけれど、私は何もしなかった。


「……ノエルが、僕と一緒にいてくれるの?」

「はい、貴方様がいいのなら」

「ジークハルトになれないけど、いい?」

「ジークハルトだったら、…いてほしくありません」

「ふふっ、ノエルも言うねぇ。まあ、あの記憶を見る限りは、そうだよね」

淡々と喋っているようで、私の肩はハルト様の涙で濡れていく。


私は直立不動のまま、こんなに近くにいるハルト様の息遣いを聞いていた。


この人がここで息をしている、私と同じように。


「ノエル、僕のことを離さないで。僕を、ハルトが、ここで生きているって思わせて」

「ハルト様だけが、私に配慮してくださいます。他にいませんので、他の方と重ねるわけがありません」

「…この世界、人に厳しすぎない?」

「貴族社会はこういうものだという認識ですね」

「じゃあ、僕に親切にしてくれるのも、ノエルだけだね」

私の腕をギュッと掴んで、ハルト様は息を深く吐いた。


耳元でその音が聞こえて、自分の呼吸も聞こえた気がした。


「ひとまず、今晩は一緒にいてくれないかい?1人でいるのが、心細くてたまらないんだ…」

「もちろんです、ずっといます」

私が即答すると、ハルト様は顔を上げた。


涙で赤くなっている目が、私を見てふふっと笑った。


「ありがとう、頼もしいや」

そう言って、もう一度私の肩へと凭れかかった。

今度はその腕で、首の周りをギュッとされた。


私は迷ったけれど、ハルト様の脇の下あたりの布をギュッと握った。


その夜は、静かで、長かった。


長い夜を怖がらなくて済むように、私たちはそばにいた。


ただただ、その時間を一緒に過ごしたのだった。





「ノエル、朝食なら一緒に行こう?」

あの日の夜以来、ハルト様は私を見つけると手を握ってくる。


今も廊下でたまたま出くわしたところだったが、すぐに手を繋がれた。

まるで恋人同士みたいに、隣を歩く。


あの談話室での夜も、同じソファーに座ってただ隣にいた。


それでいて、夜が明けるまで眠ることなくおしゃべりをしていた。


「眠るのが怖いんだ」と言うハルト様と一緒に起きていた。


その代わり、たくさんお互いのことを話した。

この家に嫁いでからのこと、嫁ぐ前のこと、幼少期の頃など。

ハルト様も、元の世界にいたこと、ジークハルトの記憶のこと、話せる範囲で教えてくれた。


私たちは、前より近づけたように思う。


ただ、このスキンシップは想定外だったので、かなり戸惑ってもいる。


嫌かと訊かれると。嫌ではない。


だから、困っているのだけれど。




「ちなみになんだけどさ」

「はい」

「貴族って、跡取りをつくることが最重要事項なんじゃないの?」

「そうですよ」

当たり前のことにそうだと頷いただけだったが、ハルト様はふんわり笑った。


「それは、僕相手でもいいってことかな?」

「……白い結婚だったので、考えたこともありませんでした。ですが」

「ですが?」

「…自分の子を抱くというのは、昔からの夢でした」

私が正直に自分の気持ちを話すと、ハルト様は破顔して頷いた。


「じゃあ、その方向で進んでいくのがよさそうだね。たぶん、『私』以外はそれを望んでいたでしょう?」

「はい、そうでした」

「だよね。ノエルは、それで大丈夫?」

優しく訊くハルト様は、私を気遣ってくれているとわかる。


ジークハルトより過ごした年月は少ないけれど、ジークハルトよりはハルト様のことはわかる。



「はいっ…!」




夫はにんじんを食べなかったけれど、今の夫は側から見たら克服したように見える。

ジークハルトは、すっかり別人のようだと、使用人が囁いている。


私の夫の魂は、入れ替わった。


だから、ジークハルトはもうここにはいない。



だけれど、私は今、この家で過ごすことが何よりの平穏なのです。





お読みくださりありがとうございました!!

毎日投稿199日目。

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― 新着の感想 ―
ノエルにとってもハルトにとっても、ハッピーエンドで良かったです。 個人的にはハルトの中に入ったジークハルトがどうなったか気になります。 ハルトの甥っ子、イジメてないよね?(´・ω・`)
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