後編
「本当に来てくださるとは思っていませんでした…」
「どうして?僕、行きたいって言ってたよね?」
「はい。ですが、ジークハルトは絶対に嫌がっていたので」
私がそう言うと、ハルト様は「あー…」と頭を掻いた。
今日は仕事が休みの日だというのに、ハルト様は一緒に孤児院に来ていた。
ハルト様がジークハルトになってからというものの、使用人たちは不審がっていたが、今では「改心されたのでは…?」というふうに思っているようだった。
周囲の人からも「以前より雰囲気が柔らかくなった」と言われるくらいで済んでいる。
人当たりがよくなったからか、良い方向へと勝手に解釈してくれて助かっている。
誰も中身が入れ替わったなどと、突飛な発想にはならないのだろう。
にんじんだけで気づいた、私の方がおかしかったのかもしれない。
それは、そうよね。
必要なこと以外で彼の視界に入らないように、気をつけていたんだから。
それは、誰よりも彼を観察していたとも言う。
そのおかげで、ハルト様をこの世界でひとりぼっちにせずに済んだとするなら、私のやっていたことには意味があったのかもしれない。
ただ、私はハルト様の何の役にも立っていないけれど…。
「ここの運営費はうちから出ているんだよね?」
「はい、前々代の当主様がお作りになって以来、管理と運営を行なっております」
「…『私』は、それを嫌がっていたと」
「偽善は気持ち悪いと、以前言っていましたね」
2人の間で、ルールのようなものができた。
以前までいた本来の私の夫ジークハルトの話を指す時は、ハルト様はジークハルトの一人称だった『私』と言うようになった。
これで他の人の前で多少話しても、気にならなくなった。
「全く、正直すぎる男だねぇ…」
ハルト様は苦笑いしながら、孤児院の門をくぐっていく。
その隣を歩いていく。
「でも、解体は命じたことないんだね」
「そうですね…、言われてみればそうです、ね」
「そこは貴族の矜持の天秤が勝ったかな」
院長が玄関前で待っているのが見えて、ハルト様はパリッとした笑顔に早変わりした。
こういうところは、ジークハルトに似ている。
挨拶すると、はじめてジークハルトが訪問するから、院長はだいぶ緊張している様子だった。
それは、子どもたちも同じだった。
「あ、…ノエル様、こんにちは。えっと」
「こんにちは。この方は…」
『夫』と紹介してもいいのだろうか。
「僕はジークハルトと言います、こんにちは」
「こ、こんにちは」
「今日はノエルと一緒に来たんだけど、よかったら僕とも遊んでくれるかな?」
その言葉に、子どもたちはおずおずしながらも、目を輝かせていた。
私も相手をすると言っても、本を読んだり刺繍を教えたりする程度だ。
彼はどうするのだろうかと思っていると、1人の男の子をヒョイッと肩車した。
「高〜いっ!」
「ははは、怖くないかい?」
「全然っ!ジークハルト様、すっげえ〜!」
「ぼくもっ、ぼくも!」
「おれもしてほしい!」
「いいよ、順番な」
あっという間に子どもたちに囲まれて、あっさり庭に出て行ってしまった。
子ども慣れしているようで、すっかり人気者になっていた。
「旦那様は、子どもと遊ばれるような方だったんですね…」
あまりのことについてきていた侍女が口を滑らせたくらい、不思議な光景に見えた。
「ノエル様、ジークハルト様かっこいいね!」
「…そうですね」
「かっこいい旦那様だと、ノエル様も幸せなの?」
「え?」
「だって、前に読んでくれた絵本の中では、『結婚して、いつまでも幸せになりましたとさ』って書いてあったよ!」
女の子たちが目をキラキラさせながら訊いてくるから、否定できなかった。
でも、何て答えればいいのかわからなくて困っていると、向こうから名前を呼ばれた。
「ノエル、ごめん。着替えって持ってきていたっけ?」
当の本人に声をかけられて振り返ると、なぜか泥だらけのジークハルトが頭を掻いていた。
「なっ、どうされたんですか!?」
「え?遊んでいただけだよ?」
ハルト様の周りにいる子どもたちも、ニーッと笑っている。
「ジークハルト様、すっごいの!足が速くて、すぐ捕まっちゃうの!」
「あーあ、子どもたちまで泥だらけではありませんか…。ここには風呂場もないのに」
「シャワーもないの?」
「あるにはありますが、水ですし」
「そっかぁ、じゃあ湯床を作った方がいいね」
そう言いながら、庭にある水場をホースを見つけて、泥だらけの子供達を連れて行ってしまう。
「ほらっ、水浴びして綺麗にしよ〜!」
「風邪引きますよっ」
「大丈夫、今日はあったかいし」
ニコニコされながらそう言われたら、何も言い返せない。
以前の私には言い返すという選択肢はなかったはずなのに、この人相手だと会話ができるともう知っている。
「タ、タオルをもらってきます…!」
私は自分の質問への返答をすることなく、部屋の中へと入っていった。
ずるい大人だ…。
ハルト様は、ジークハルトにならざるを得なくて、ここにいるしかないのに。
私は唇をギュッと噛み締めることしかできなかった。
その日の夜、目が覚めてしまって、私は廊下を歩いていた。
寝室は結婚初日から別々だから、ジークハルトに知られることもない。
元のジークハルトがいた時から、時々こうして夜中に廊下を歩いていた。
眠れない日、反省が頭の中を回ってうるさい日、怒鳴られて怯えた日。
そういう日はジークハルトが寝室に入ったのを見計って、隙を見て、歩き回った。
使用人はそんな私の行動を察しているから、今更何か言われたりしない。
はじめて真夜中に廊下を歩いた時、執事長に心配されたことを思い出す。
私は曖昧に笑って、「大丈夫です」としか言えなかった。
そういえば、ハルト様が来てからは、はじめてだったかもしれない。
この時間なら、談話室の窓が一番月が綺麗に見えるはずだ。
なんとなく足がそちらに向いていく。
ジークハルトは、きちんと生活できているのだろうか。
ハルト様は貴族ではなかったと言っていたから、今頃苦労しているのではないか。
それとも、私と離れられて清々しているのかしら。
むしろ、よかったと思っているかもしれない。
それならいいのにと思ってしまう自分がいる。
彼もそう思ってくれていたら、私もそう思えるのに、と。
自分だけいい環境になっていることに、罪悪感を覚え始めている。
ハルト様は、いつまで私と一緒にいてくださるのだろう。
そんなことを思っているうちに談話室についていて、部屋の扉を開けた。
「…っ」
「あ、ハルト様…、すみません。ノックもせずに」
そこには先客がいて、窓の近くにハルト様が立っていた。
月明かりに照らされたハルト様は、普段とは違う儚い雰囲気に、無意識に後ずさった。
「帰って、しまわれるのですか…?」
ハルト様が消えてしまうように、私には見えた。
行かないでほしい、ジークハルトに帰ってきてほしくない…!
「ははっ、女神様曰く交換は一度きりだそうから、帰ったりしないよ」
乾いた笑い声が返ってきて、私は胸が締め付けられた。
余計なことを言ってしまった。
そんな悲しい声をさせたかったわけではないのに。
自分の欲を優先させた。
ジークハルトには二度と会わなくて済むなら、私はホッとする。
だからといって、ハルト様にそれを押し付けるのは違う。
そばにも行けないし、今更言ったことを取り消せない。
「私…」
「ノエルはどうしたの?眠れない?」
「目が、覚めてしまって…」
「そっか。そんなところに立っていないで、こっちに来たら?何か用があったんでしょう?」
「いえ…、お邪魔して申し訳ありませんでした」
「ノエル」
ハルト様の声が怖いくらいに響いて、私は部屋からも出られなくなった。
「よかったら、こっちに来てくれないかな」
「お一人で過ごされたかったのでは…?」
「んー、どうだろ。わかんないや」
はっきりものを言わないから、私もなんて返していいのかわからない。
ジークハルトは、ある意味わかりやすかった。
悪意というのは、明確に見分けられるものだったのかもしれない。
ハルト様は、わからないことだらけだ。
扉を閉めて、ゆっくりと窓際に近づいていく。
彼と向かい合う形で、近くまでやってきた。
窓のそばでもそこそこ暗いけれど、表情は見て取れた。
悲しそうな顔はしていなかった。
だけれど、今まで見た中で一番生気のない顔をしていた。
「具合でも悪いですか?」
「ううん、そんなことないよ」
「では、私の発言が不快にさせましたか?」
「違うよ、ノエルのせいじゃなくて、…今日のことを思い出していたんだ」
そう言って、ハルト様は窓の方に視線を戻した。
その目が何を映しているのか。
ハルト様の目には、月は綺麗に見えているだろうか。
「…僕ね、元いた世界に甥っ子がいたんだ。姉の子でね、とても可愛がっていたんだよね。それこそ、今日みたいに馬鹿騒ぎして、一緒に遊んだりしてさ」
「……」
「僕、本当に帰れないんだよねぇ」
そう零した一言がずしりと重くて、胸が痛くなった。
「最初はさ、ここに慣れなきゃなって。ノエルもよくしてくれているし、使用人のみんなもよく働いてくれているし、それに見合うように頑張らなきゃって思ってたんだけど」
頭を掻いたハルト様は俯いて、空を見るのをやめた。
その背中が、急に小さく見えた。
「それって、僕のしなきゃいけないことことなのかなって、わからなくなっちゃった」
私の方を向いたハルト様は、ポロリと涙を零した。
私は息が詰まりそうだった。
「…本当は、ずっと怖かったんだ」
ポロポロと一粒一粒が真珠玉のように、床へと落ちていく。
それを見ていることしかできない自分が嫌になる。
ジークハルトだったら、私の前で弱みを見せたりしない。
「帰れないことも、ジークハルトとして生きることも、元の世界の僕もことも。怖くて仕方なくて、見ないふりしてただけなんだ…」
「ハルト、様…」
「様なんて呼ばれるような人間でもないんだよ」
「……あ」
「僕は、ジークハルトの居場所を奪ってここにいることが苦しいよ」
背中に月を背負っているからか、輪郭を通った涙が光っていた。
私は口を開いて、何も言えなくて、また閉じた。
その間もハルト様は自分の胸を掴んで、心の叫び声を声に出した。
「僕はもう誰とも会えないし、元の世界のみんなにも認識してもらえないっ…!僕は、僕じゃなくなっていくみたいだ!」
「……」
「もう本当は全部嫌だよ、僕は1人になりたくないよっ…!」
その言葉に、私はグッと一歩前に出ていた。
それから、自分でも驚くほどの大きな声が出た。
「私がいます…!ハルト様はここにいてくださるだけでいいです!」
「ノエル…?」
「家のことをやりたくないのなら、私が全部引き受けます。お仕事だって辞めたっていいです。好きになさってくれたら、いいのです…!だから、ここからいなくならないでください」
つらつらと言葉が出ていって、止まらなかった。
ハルト様は何度も瞬きをしながら、きょとんとした顔で私を見ている。
「あなたがいてくれたら、私はこの家で息ができます。怒鳴られることもなければ、怯えなくてもいい。そんな人、ハルト様だけです…。お願いです、私とでは嫌かもしれませんが、ここにいてください…」
私の方が泣きそうになって、言い切ったら、どれだけハルトという存在に心を救われてきたかを自覚して、私は項垂れた。
私にとって、ジークハルトと代わってくれたことは、幸運だったと言っていい。
死ぬまであの人の怯えていく未来だって、あったはずなのだ。
それを女神の試練などという理不尽によって、私の人生に光が差した。
だったら、今度は私が何かに応える番だ。
「あなたがここにいやすいように、私が取り計らいます。ですから、あの…」
「ふふふっ、ノエルって大きい声出せたんだね」
笑っている声に顔を上げると、泣き笑いしたハルト様と目が合った。
「えっと、今、そこなのですか…?」
「はじめて聞いたよ、きっとジークハルトも聞いたことないんじゃない?」
「…あの人の前では、緊張して、小さい声しか出なかったので」
「そうか、じゃあ僕は気を許してもらえているんだね…」
それだけ言うと、ハルト様の方から近づいてきて、距離が縮まった。
泣いたままのハルト様の方が小声で、私の顔色を窺っているようだった。
「ノエル、頼みがあるんだ」
「はい、なんなりと」
「肩を貸してくれないかな」
言われた意味はわからなかったが、すぐに頷いた。
ハルト様は、「ふっ」と息を漏らすように口元を緩めて、そのまま私の肩に顔を埋めた。
びっくりして体が跳ねたけれど、私は何もしなかった。
「……ノエルが、僕と一緒にいてくれるの?」
「はい、貴方様がいいのなら」
「ジークハルトになれないけど、いい?」
「ジークハルトだったら、…いてほしくありません」
「ふふっ、ノエルも言うねぇ。まあ、あの記憶を見る限りは、そうだよね」
淡々と喋っているようで、私の肩はハルト様の涙で濡れていく。
私は直立不動のまま、こんなに近くにいるハルト様の息遣いを聞いていた。
この人がここで息をしている、私と同じように。
「ノエル、僕のことを離さないで。僕を、ハルトが、ここで生きているって思わせて」
「ハルト様だけが、私に配慮してくださいます。他にいませんので、他の方と重ねるわけがありません」
「…この世界、人に厳しすぎない?」
「貴族社会はこういうものだという認識ですね」
「じゃあ、僕に親切にしてくれるのも、ノエルだけだね」
私の腕をギュッと掴んで、ハルト様は息を深く吐いた。
耳元でその音が聞こえて、自分の呼吸も聞こえた気がした。
「ひとまず、今晩は一緒にいてくれないかい?1人でいるのが、心細くてたまらないんだ…」
「もちろんです、ずっといます」
私が即答すると、ハルト様は顔を上げた。
涙で赤くなっている目が、私を見てふふっと笑った。
「ありがとう、頼もしいや」
そう言って、もう一度私の肩へと凭れかかった。
今度はその腕で、首の周りをギュッとされた。
私は迷ったけれど、ハルト様の脇の下あたりの布をギュッと握った。
その夜は、静かで、長かった。
長い夜を怖がらなくて済むように、私たちはそばにいた。
ただただ、その時間を一緒に過ごしたのだった。
「ノエル、朝食なら一緒に行こう?」
あの日の夜以来、ハルト様は私を見つけると手を握ってくる。
今も廊下でたまたま出くわしたところだったが、すぐに手を繋がれた。
まるで恋人同士みたいに、隣を歩く。
あの談話室での夜も、同じソファーに座ってただ隣にいた。
それでいて、夜が明けるまで眠ることなくおしゃべりをしていた。
「眠るのが怖いんだ」と言うハルト様と一緒に起きていた。
その代わり、たくさんお互いのことを話した。
この家に嫁いでからのこと、嫁ぐ前のこと、幼少期の頃など。
ハルト様も、元の世界にいたこと、ジークハルトの記憶のこと、話せる範囲で教えてくれた。
私たちは、前より近づけたように思う。
ただ、このスキンシップは想定外だったので、かなり戸惑ってもいる。
嫌かと訊かれると。嫌ではない。
だから、困っているのだけれど。
「ちなみになんだけどさ」
「はい」
「貴族って、跡取りをつくることが最重要事項なんじゃないの?」
「そうですよ」
当たり前のことにそうだと頷いただけだったが、ハルト様はふんわり笑った。
「それは、僕相手でもいいってことかな?」
「……白い結婚だったので、考えたこともありませんでした。ですが」
「ですが?」
「…自分の子を抱くというのは、昔からの夢でした」
私が正直に自分の気持ちを話すと、ハルト様は破顔して頷いた。
「じゃあ、その方向で進んでいくのがよさそうだね。たぶん、『私』以外はそれを望んでいたでしょう?」
「はい、そうでした」
「だよね。ノエルは、それで大丈夫?」
優しく訊くハルト様は、私を気遣ってくれているとわかる。
ジークハルトより過ごした年月は少ないけれど、ジークハルトよりはハルト様のことはわかる。
「はいっ…!」
夫はにんじんを食べなかったけれど、今の夫は側から見たら克服したように見える。
ジークハルトは、すっかり別人のようだと、使用人が囁いている。
私の夫の魂は、入れ替わった。
だから、ジークハルトはもうここにはいない。
だけれど、私は今、この家で過ごすことが何よりの平穏なのです。
了
お読みくださりありがとうございました!!
毎日投稿199日目。




