第2章 生贄
シエル様と対談をしてから、数日が経った。いや実際、どれくらいの時が過ぎたのかは分からない。神室は地上からはるか遠く高く、雲の上。窓から見える明るさで時の流れを読んでいるだけであり、本当に数日で済んでいるのかは不明だ。
先の見えない不安から、ため息が零れる。真っ白な壁、外を一望できる大きな窓。酷く静かなこの空間は、まるで時が止まっているみたいだった。
「……私は、どうしたらいいんだろう」
不安を吐露しても、支えてくれる人も答えてくれる人も居ない。
今、私と過ごしている相手は世界の創造神であるシエル様。ただの人間である私に、シエル様はやけに固執しているように見えた。それはシエル様のいう平行世界の私が関係しているのかもしれないけれど、ここに居る私はあの世界の私とは違う。だと言うのに、シエル様は私に部屋を与え毎日愛を囁く。囁かれる度に見えない鎖が身体に巻き付くような感覚がした。
愛を否定したら傷つけてしまいそうで、拒んだらどうなるのか分からない見えない畏怖に囚われる。
(ソレイユは、今何をしてるのかな……)
ベッドから降り、窓ガラスに手を重ねる。ソレイユの後輩となって鍛錬をした日々が、なんだか遠い昔のことのように感じた。眠る度に別世界の記憶が蘇る。ソレイユはネオという悪魔に私が会わない限り、どの世界線でも私を守ってくれた。そばに居て、鼓舞してくれた。だけど私は必ず上位存在に属する者たちに幽閉される。
取り残されたソレイユを、知ることは出来なかった。
冷たくなった指先。そっと窓ガラスから手を離せばコンコンと扉を叩かれた。
「あら、目が覚めたのね。おはよう、気分はどうかしら」
「おはようございます、シエル様。気分まで気にかけて下さりありがとうございます。特に問題はないかと……」
「そう? ならその堅苦しい敬語は止めてちょうだい。あぁそうだ! 今日はあなたの大好きな料理を用意したの。フフッ、嬉しいでしょう? 早く貴女に食べさせたい、ほら着いてきなさい」
顎下まで伸びている毛先の揃った銀色の髪をふわりと靡かせ私の手をとる。スラリと伸びた指に骨ばった手。長いまつ毛から覗く桃色の眼は私を見つめ、柔らかく目尻を細めた。身長は私よりもずっと背が高く、男性にも女性にも見えるその姿は、中性的でとても魅力的。引かれるままついて行く道中、私は抱いていた疑問をぶつけた。
「シエル様はどうして、私にここまでして下さるんですか? 少なくとも私は、この世界でシエル様に何もしていないのに」
ここまで私が感じてきた畏怖は、恐らく身に覚えのない無性の愛だ。同じ人間からされても怖いのに、神様からされるなんて普通ではないだろう。せめて理由だけでも分かれば、現状を受け入れることが出来るかもしれない。
「どうして、ね。私が貴女を好きになった理由を話せば満足かしら?」
「えっ、あ……は、はい」
「フフッ、確かに貴女を甘やかし愛でてはいたけれど……理由まではきちんと伝えられてなかったわね」
シエル様と話す時はいつだって氷張りの上を歩いている気分になる。どこかで気分を害してしまったとき、死よりも辛い目に合うのではないか……とか。ストレスの発散に街一つ消されてしまうのではないか、と不安が過ぎるのだ。上位存在は、人と価値観が違う。倫理観も異なる。例えシエル様を信仰する聖騎士の一人であっても、私は全てを享受するほど盲信者ではない。
カツンとヒールの音が止まった。
「ただの一目惚れよ。貴女の魂、容姿、声——その全てに私は惹かれたの。 笑っちゃうでしょう?」
「わ、笑ったりなんて……! で、でもそんなことって」
「貴女が平行世界の記憶を所持するように、私もあの時の高揚感がずっと残っているの。神でありずっと孤独だった私が、初めて抱いた感情なのよ。こんなの愛おしくて仕方ないじゃない」
熱を帯びたような桃色の眼が、うっそりと私を見つめる。私には分からない多くの欲が眼の中で煮詰まっているようだった。
「あの時の私は、魂だけとなった貴女を意のままにしてしまった。でもね、今は違う。貴女は生きたままここに居る。貴女を支配しないで、心を通わせたいの」
(……あれ? もしかして私が怯えてるだけで、シエル様は意外と純粋なのかな)
その言葉に嘘があるようには思えなかった。
けれど、だからといって安心できるわけではない。シエル様は私を愛している。だからこそ、私の意思を無視してでも手元に置こうとするのだから。警戒心を緩めすぎてはいけない。
「貴女が人として生涯を終えたい気持ちは汲んであげたいけれど、それを許したら貴女……私以外の者の番にされちゃうんだもの。そんなの許せないわ」
ぎゅっとシエル様の腕が腰に回る。甘く柑橘の爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「最初は信じられなかった。神である私が人に執着するなんて、ありえないもの。だから興味本位で貴女を無理やり連れてきた」
「……天使のルカさんに舌打ちされた上、雑に運ばれましたからね私」
「仕方ないわよ、ルカはそういう男だから。でもね、無理やり連れてこられ混乱している貴女を見た時、感じたことの無い感情が溢れたの。きっと数多の世界線の私が抱くはずだったものが、全て来たのかもしれないわね」
私を抱きしめる腕の力がふっと緩む。そのまま手の甲をなぞり、ゆっくりとシエル様は指を絡めるように繋いだ。
カツ、カツ……とまたヒールを鳴らし歩き始める。チラリと視線を向ければ、シエル様は何かを考えるように瞼を閉じ前を見据えた。
私たち二人では大きすぎる城。食堂はもう見えるところまで来ているのに、なんだか酷く遠く感じた。
***
「え、ソレイユがどんな人か知りたいんですか?」
食堂に着くなり、シエル様はさも当然と言わんばかりに私を膝の上に乗せた。そうして出された食事に「頂きます」とフォークを持つ私の手を掴み、あーんされる。
正直恥ずかしいし、抵抗をしても良かった。けれどシエル様は純粋に私を好意的に思ってくれる。最初の強制花嫁発言をされた時は恐怖しかなかった。でも今は、なんだか拒絶するのも申し訳ない気がしてしまい。花嫁云々の話は保留にしたままだけれど、この優しさは享受してもいい気がしてきたのだ。
与えられるまま食事をし、一息ついたところでシエル様に問いを投げられた。「ソレイユ」についての。
「貴女、ソレイユと約束したと言っていたでしょう? 私の庇護を拒んでまで約束を果たそうとした。私よりもソレイユの方を選んで……」
「あ、いや別にソレイユを選んだわけじゃ。でもそうですね……ソレイユは本当に優しくてできた人なんです。太陽のような人っていうのかな」
「太陽、ね」
少しだけ、シエル様の声が低く感じた。気を害してしまったかと話を切り上げようとすれば、「続けて」とシエルはつまらなさそうに私の手を握りながら、話を続きを促す。
親しみやすく感じてきたとはいえ相手は神様。きちんと言葉は選んで話そうと、深呼吸をしながら私は口を開いた。
「ソレイユは、どの世界でも必ず私を後輩にしてくれた。面倒見が良くて、優しくて強い。彼がいれば私はどこまでも頑張れる気がした」
「…………」
「頑張れる、気がしたんです。だけど私はダメだった。ソレイユと一緒に平和な世界を迎えることは不可能だと言われるみたいに、必ず絶対……彼を置いていく」
そうして今も。
私は、シエル様と共にいる。
ソレイユと会った日の事は昨日のことのように思い出せる。彼の笑顔は向日葵のように眩しく、まるで世界を照らすために生まれてきた存在のように明るかった。私を妹のように可愛がってくれて、一人ぼっちだった私に手を差し伸べてくれたソレイユに、私は救われたんだ。
お互いが孤児だったこともあるのかもしれない。私たちは自然と兄妹のような関係になっていった。家族のような存在だったんだ。
「シエル様、お願いがあります」
「あら、なぁに?」
「私は最後まで抗いたい。どの世界でも果たせなかった約束を今度こそ果たしたい。だけどそれはきっと、この世界線では果たせません」
小さく息を吐き、両手でぎゅっとシエル様の手を握る。膝上で抱きしめられたままの状態では向き合うことは不可能。だからせめてもの誠意として、私は彼女の手を自分の胸に当てた。
脳裏に浮かぶのは、別世界の記憶。ソレイユとよく似た青年が、暗闇の中で苦しんでいる姿だった。このまま何もせずにいれば、また同じ結末を迎えるかもしれない。
シエル様の愛情は恐ろしい。けれど、シエル様は世界の歪みについて何かを知っている。そばにいることで、何かを変える手がかりになるのなら。
私はもう一度、未来を選ばなければならない。
「私を貴女の花嫁にしてください。貴女に愛される最後の私にしてください」
「……私にとっては嬉しいことだけれど、きっと大変なことになるわよ。複製された世界の私が貴女に飢え、ここに来るかもしれない。全ての私を貴女が受け入れることになる。——それでも、いいの?」
「はい。ただ愛され慣れてないので、寧ろ今まで貰えなかった家族愛としてありがたく享受させて頂こうと思います」
本当は嘘だけど。大量のシエル様がやってきたら私は恐らく色んな意味で持たないだろう。それでも、頑張るしかない。ここまで記憶が戻り、要となるシエル様のご好意を頂ける機会を逃す訳にはいかない。
胸の内を打ち明けるように伝えれば、くすくすと鈴を転がしたような声が落ちた。脇の下に手を差し入れられ、そのまま持ち上げられる。くるりと身体の向きを変えさせられ、シエル様と対面するような形で座り直された。
恐る恐る顔を上げれば、ぱちりと視線が絡まる。桃色の眼は私が想像していたよりも優しく、じっとこちらを見つめていた。
「望みは何かしら」
「えっ……」
「貴女は私にお願いをしたんじゃないわ。私の求愛を受け入れただけだもの。これは褒美よ。さぁ……教えて。だって貴女は私の花嫁だもの、ずうっと私のモノ。私の願いを叶えたお嫁さんにはご褒美を与えなくっちゃ」
柔らかい唇が触れた。腰に回された手はもう逃がさないというように強く、反対に頭から頬を撫で耳をくすぐるその手は優しかった。甘い、あまい口づけを何度も頬や額へと落とされた。
怖いはずだったのに、拒めない。
脳が、心が、喜びと認識していく。思考が塗り替えられていく感覚が怖い。なのに私の口からは熱い吐息しか零れなかった。思考が蕩けていく。シエル様の愛情に身を委ねてしまえば、きっと楽になれるのだろう。
「シ、エル……さまぁ……」
「フフッ、良い顔ね。貴女が強情すぎて困っていたけれど、貴女は私を受け入れた。私を少しでも好意的に思ってくれたお陰で、やっと固い恐怖心を崩すことができたわ」
「う、ぅ……」
——駄目だ。まだ、ここで流されるわけにはいかない。
私はソレイユを救いたい。そのために、この人の花嫁になることを選んだのだから。シエル様に頼むならご機嫌になった今しかない。
シエル様の首に手を回し膝を立て、私はそっと唇を重ねた。
「夢を、見たんです。ソレイユが苦しんでいる夢を」
「……そう」
「複製された世界で、私は彼を助けたい。助けられるか、分からないけれど……。力を、知恵を貸してくれませんか?」
私の願いを聞いたシエル様は、数分ものあいだ黙り込んだ。
秒針の音もない、聞こえるのは互いの呼吸だけ。
耳が痛くなるほど静かな空間で、シエル様は小さく息をついた。
「いいわよ」
「——えっ」
「でも、チャンスはきっと一度きり。それでも構わないかしら」
陶器のように白い指が、私の顎を持ち上げた。
私の覚悟を試すように目尻を細めるシエル様に、こくりと頷いた。
不安がないわけではない。私は複製された時の自分がきちんと目的を果たせるかという推測できない未来と、今後の自分の未来……二つを背負っているのだから。
だけどここで引くわけにもいかない。
「私はなんだってします。彼を救えるのなら。——もう、覚悟は決めました」




