第1章 花嫁
この世界は酷く歪なものになってしまった。
その歪みは、私の対となる存在——邪神クランの封印が解け始める頃に必ず始まる。本来であれば世界はひとつであり、同じ時代の記憶がぶつかり合うはずはない。だと言うのに、私は別世界の私を知っている。
「誰かが複製しているのは確実ね。そして、その起因が貴女なことも」
ガラス張りの空間で、目の前の少女は小さく肩を震えさせた。私よりも遥かに小さく、少しでも力を加えればぽっきり折れてしまいそうな程に華奢な容姿。こんな子が別世界では邪神クランを封印させたなんて信じられない。
「……でもシエル様、私本当に何も知らないんです。この花飾りのことだって」
少女の手には、別世界の私が渡した聖花晶の花飾りがあった。私が可能な限り魔の手から少女を守るように渡した婚姻の証。聖花晶がある限り、少女の魂は守られているはず。盲目になった私が少女を可愛がるために用意した品だけれど、世界の歪みが変わらないということは少女は被害者側なのかもしれない。少女に闇の力がある、または闇の力を掛けられているのなら、花飾りがそれを断つはずだ。
けれど平行世界は増え続けている。つまり少女以外の者が、意図的に増やしているのだろうか。閉じた瞼を少しだけ開け、少女に目を向ける。既に邪神に魂を汚されているものの、少女の内なる清らかな優しさが淡く瞬いていた。
その美しい魂こそ、別世界の私を……そして今の私を魅了する。
「困ったわね……」
「も、申し訳ありません。本当に、何もわからなくて……お力になれず」
「いえ、貴女が謝る必要はないわ。まさか創造神である私にすら解決できないなんて、本当に貴女は面白い子ね」
頭を下げる少女の頭を撫で、そのまま頬に手を滑らす。戸惑いながら顔を上げる少女は、目を揺らしながら私を見た。長いまつ毛に上目遣い。絹のように艶やかな髪は、柔らかく靡いた。あの日よりも背が小さい少女は本当に可憐で、愛らしい。「ほぅ……」と吐息が零れてしまう。
「私はね、幾つもの人生を見ていたの。もちろん、貴女のね」
「私の……?」
「えぇ。そして必ず貴女は囚われてしまう。貴女は人ではない者に逃げ出すことも許されないまま、愛され、夢も意思も何もかも奪われるの。人としての真っ当な人生を送ることができないまま、ね」
小さく柔らかな唇に指を滑らせば、ひゅっと少女の喉が震えた。一歩後ずさるそのつま先に、私のつま先をくっつける。
楽園に浮かぶ城。ガラス張りの空間に差し込む光が、私たちの影を伸ばす。重なる影は、まるで私が少女を飲み込んで一つになろうとしているようだった。
誰も訪れない神室は酷く静かで、少女の心臓の音も震える空気も全て聞こえる。聖騎士を目指す少女にとって、私に会えることは何よりも光栄なこと。けれど目の前にいるこの私が将来仕える主だというのに、本能が警鐘を鳴らしているのでしょう。彼女の、閉ざされた記憶が逃げろと。
「助けてあげたいと思ったのよ。聖騎士になる前にここへ連れてくれば、少なくとも他の者に娶られることはない」
「……それでも、私はソレイユと約束したんです。一緒に聖騎士になって世界を救おうって。一緒に平和で幸せな世界を取り戻そうって! だから、私は守られたくない。記憶があれば先手を取れます。神様——シエル様に守られなくても」
「無理よ。無理だったの、貴女はそれでも囚われた。どの程度覚えてるのか分からないけれど、どう足掻いても貴女の結末は変わらない。貴女はここで私と共に暮らすことが、何よりも幸福な未来なの」
にこりと微笑めば、少女は目を伏せ小さく首を横に振った。小さな頭で必死に反発の言葉を考えていて、本当に可愛らしい子。本当は怖くて仕方がないのに、受け入れたくなくて意地を張って……強欲なところがいじらしくて堪らない。力のない者が虚勢を張ったところで、何も変わらないというのに。
「知ってるかしら? 貴女はね、別世界では私のお嫁さんだったのよ。この神室で暮らしてた時は幸せで仕方がないってくらい笑ってたわ」
「そんなこと、言われても」
「私は貴女の願いを叶えて、世界を平和にしてあげた。誰も死なない優しい世界に」
花飾りが淡く輝く。キラキラと粒子を散らすと、少女のまつ毛が震えた。拾ったのでしょう、別世界の記憶を。戸惑うようにまた一歩下がる少女は、目を揺らしながら私を見上げた。
「今の私は、あの時と違って何の功績も持っていません。確かにシエルさまの言う通り、ここで守って貰えるのであれば幸せなことかもしれません。だけど……私はそれを望んでないんです」
「あら、どうして?」
「私は普通の人間として真っ当に生き、天寿を全うしたいから。人として生まれたのなら、人として生涯を終えたい! 夢を叶え、過去を振り返った時、生きていてよかったと思える人生を歩みたいんです!」
宝石のように綺麗な眼が真っ直ぐに私を見つめる。震える手を隠すようにもう片方の手を重ねて握るその姿は、まるで小動物が威嚇しているみたいだった。世界で一番偉い私に、上位存在である私に勝てるわけなんてないのに。私の力を貰わないと邪神を倒す力すら手に入らないのに。神様のご機嫌よりも、自分の尊厳を通そうとするだなんて。
——なんて愚かで、可愛いのかしら。
「ふふっ。ふふふっ」
「わ、私は本気です! それにシエル様のご期待に添えるような答えは持ち合わせていません。そろそろ、お家に返してください!」
「嫌に決まってるじゃない。だって私、貴女の事が好きで好きで大好きなんだから。返す選択肢なんて最初から用意してないもの」
「えっ……?」
私を見つめる眼から、みるみる光が失われていく。何かを言いかけた口が、音もなく閉じられた。
「貴女は私のお嫁さんなんだから。今は私が何を考えてるのか分からなくて、怖いかもしれないけど。貴女は必ず私を好きになる、ここにいることが何よりも幸せだって思う日が来るわ」
「や、やだ……。か、帰らせてくださいシエル様……」
「二度も同じことを言わせるつもり? 仕方ないわね、お馬鹿な貴女にいいことを教えてあげるわ」
これ以上怖がらせないように屈んで、逃げないように小さな手を握る。今度は私が顔を上げ視線を絡めれば、ぴくりと細く冷たい指が動いた。
「貴女がここでずっと私が満足するまで求愛を受けてくれれば、この後別世界が複製されたとしても私は貴女に手は出さないと誓うわ」
「えっ」
「この世界の貴女は永遠に私に愛され別世界の貴女は救われる。ふふっ、いい話でしょう? 考える時間を与えてあげるから、いい返事を待ってるわね」
血が通ってないと疑いたくなるほどに冷たい左手の薬指を口に含み、優しく歯を立ててから私は部屋を後にした。
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