第1章 陽だまり
この世界に神が存在する限り、それを存続させるための対なる器が、世界には必要だった。そう、誰かが言っていたのを今でも覚えている。
人々は苦しみや憎悪を壺の中に吐き出し、封をした。膨大な負のエネルギーを含むそれを持ってきては、私が封印されている洞窟へ置いていく。集められた憎悪を暗闇の中一人で浴びるのも、尽きない命が悲鳴をあげても私はここから出ることが出来なかった。
世界の始まりのどこかで、誰かが神を降ろしたせいで私は生まれてしまったというのに。随分と勝手なものだ。
朝も夜も来ないこの場所は、酷く冷たく。聴こえる音は、儚い波の音。封印された時は、気が狂いそうになったが今はもう慣れてしまった。時折、浴びせられる怒声も。啜り泣く声も、どうでもいい。どうでも、よくなってしまったんだ。私は、憎悪を溜める為だけにいる存在なのだから。苦しむだけ無駄なんだと。
人間は誰かが怪我しても、心を病み自らの意思で命を絶ったとしてもそれを全て『邪神』のせいと謳う。そうやって、責任を転換し現実から目を背けてきた。いつしか、それが当たり前となり。忌み嫌うようになった。神である、私を。
そんな日々が何百、いや何千年か続いたある時のことだった。
「おひさま、さまさま、さんまっま〜」
不意に遠くから聞こえた、明るい人の声。怒声でもなければ恨み言でもないそれは、鳥のように高く。踊るよう言葉を紡いでいた。舌っ足らずで、心地よい声色でその子は歌う。
「さんまを、んまんま、たべまして〜」
「……食事なんて、したこともないな」
「おいしいスープも、つくりましょ〜。おさかな、とんとと、やさいもドーン」
空腹も感じないこの身体では、歌詞に食欲をそそられることはない。ただ、不思議と胸の奥が温かく感じた。ずっとその声を、歌を聴いていたい。人類に対する恨みつらみも、人の子の歌を聴いている時だけは忘れることが出来た。まるで、この封印された洞窟の中に射し込む光のように。出会うはずがなかった可愛らしい人の子と、私は封印の壁を通して繋がった。
それから人の子は、私のいる洞窟付近の海を気に入ったのかよく来るようになった。僅かに聞こえる声を伝って、魔力を注ぎ。魂を記憶し、遂に夢という精神が無防備な世界で私たちは会うことが叶った。
そうして今日も、人の子は海へやってくる。
「きょうは、かいがらをおみやげにしよっと」
「随分と綺麗な貝殻だ。キミに良く似合うな……そうだ、ネックレスにしてあげよう」
「わっ、すごい! かわいい! まほうの貝だったのかな」
繋がった縁から人の子の視野を共有し、縁を伝うように魔力を注げば想像通りの姿へ変わる貝殻。少し長かったかと思ったが、どうやら杞憂だったようで。海を覗き込んだ時のその笑顔は花よりも眩しかった。憎悪から生まれる魔力で世界を滅ぼすつもりだったが、人の子のために使うのも悪くない。
「あぁ、そうだな。この力は、キミを脅かすものを排除するために使ってもいいかもしれない。キミには、笑顔が似合うから」
いつか、私がここから出られたその時は。
精神ではなく、この身体でちゃんとキミを迎えに行こう。キミはこの世界で、穢れなき美しい魂を持つ子。私を含む、上位存在には極上な魂なのだから。
***
「どうして、こんな所で遊んでるの! ここは危険な場所なのよ!」
「うっ、ひっく……ごめんなさい。で、でもっ」
「でもじゃない。もー、怪我はない? 具合は悪くなってない? 二度とここには来ちゃダメよ、わかった?」
人の子――いや彼女を通して、外への干渉は容易く出来るようになった。今では彼女の思考も手を取るように分かる。そして、感情の起伏も。
まずは一人、彼女を泣かせる者を排除しよう。彼女と近しいものならば、干渉も容易い。私をここに閉じ込めた人間たちを脅かすにも丁度いい駒だ。あの者に病を与え、媒体とし多くの者を死へ追い詰める。私を封印しているからと鷹を括り、虐げ愚弄する人間に少しだけ悪夢を見せてあげようか。
「早く、キミに会いたい」
キミと会えたら、先ずはあの歌を参考にスープでも食べさせてあげよう。料理などしたことは無いが、彼女の為に振る舞いたい。
そんな未来を想像し、時が過ぎた頃。彼女の魂が震えた。
「――ママ、おきて。もう、海いかないから。ひっく、う、うぅ……おきてぇ」
「……どうして、こんな事に。どうして……!」
ポロポロと彼女の眼から真珠のような涙がこぼれ落ちる。そんなに涙を流して……腫れてしまうだろうに。隣の男は、何をしているんだ。ただ呆然と立つどころか、彼女に目もくれない。
「これは、邪神の仕業だ。そうに違いない……」
「もうこの娘はダメだ。邪神に目をつけられている」
「全ては、邪神のせい。邪神のせいだ……あぁ、神よ! お助け下さい」
うわ言のように同じ言葉を吐く人間共。泣いている彼女を誰を慰めない。これだから、人間は。早く殺めてやらなければ、また彼女が苦しんでしまう。
手を伸ばし思念を送ろうとした刹那、人間共の手により彼女との繋がりが経たれてしまった。恐らく、神の力を持つ聖なる者が清めたのだろう。
「――じゃしんさんの、せいなんだ……」
最後に聞き取れた彼女の言葉は、奴らの思想に染まってしまったものだった。
それでもキミだけは、助けてあげよう。キミは、孤独だった私の唯一の光だったのだから。俗世に染まってしまっても、助けてあげよう。仕方ないことだ、人間はそうして周りに合わせないと生きていけないのだから。キミは大人の圧力に負けた可哀想な子。すぐに流されてしまう危うい子。
「――キミが例え道を踏み間違えたとしても、私が必ず正すよ」




