85話
「ひゃわっ!?」
「ん…、やっぱりしませんね。」
「ぉ、お前…っ、嗅ぐなっ!」
「とても好みの香りだったのですよ。近くで嗅いだら分かるかと。」
「だ、だからって、こ、こんな…っ!」
メヒテルト殿から以前のような良い香りがしないので確認しようと彼女の首筋に顔を埋めてみたら顔を押し退けられました。以前は馬に乗っている時でも少し背伸びするような恰好で嗅いだような気がしますが、今では身体を屈めないといけません。
どうしてこうも叱られるのか今もよく分かりませんが、あの時の香りは何だったのでしょうか。
「クロガネ、お前ももう子供ではないんだ…その、こんな風に近い距離で、触れるのは…っ。」
「確認しただけですよ?」
「わた、私も今は夫のある身。独り身の男性と密着するのはだな、褒められた事ではない。だから、その…つ、慎みを持ちなさいっ。」
「慎み…。はぁ…、そういうものなのですか。失礼しました。」
「ゎ、分かれば良いっ。」
人間とは面倒な生き物だと思っていましたが、自分がこの身体になって更にそう思うようになりました。
親愛を示そうとすると叱られるのです。母上と姉上にもよく指摘されます。面倒は御免なので母上と姉上以外には自重しているつもりなのですが…。
匂いを嗅ぐのもいけないのですね。…あの香りを嗅ぎたかったのですが。
「あ、ヒロト君。良かった、まだ居てくれて。」
「…レイチェル殿?どうかされたので?」
メヒテルト殿の頬が赤いのは体調が悪いのではないだろうと思って眺めていたところ背後から声を掛けられました。走って来ただろうと思えるレイチェル殿が少し息を切らせて立っていました。
姉上よりも小柄なレイチェル殿はどうしても見下ろす格好になってしまうのですが、服装の所為か谷間に視線がいってしまいます。この隙間、鼻先を埋めると温かくて寝心地が良かったんですよね。今の身体では難しいですが。
「おい、クロガネ。女性の胸を凝視するものじゃない。…羨ましいくらいではあるけど…。」
「はぁ、失礼しました。それでレイチェル殿、何かあったのですか?」
「あ、違うの。ちょっと謝りたくて。」
「…謝る?」
「うん、テラが…ごめんなさい。何時もはあんなに突っかかるような子じゃないんだけど…。」
「あぁ、別に構いませんよ。五月蠅いのは嫌いですが、レイチェル殿が謝る必要などありません。」
「有難う。えぇと、そちらの魔物さんも…ごめんね。」
「…それは、何に対しての謝罪でしょうか?」
「あ…。」
少し、意地悪だった気がします。小生の問いにレイチェル殿は黙ってしまわれました。
レイチェル殿に当たるのは違うと分かってはいるのですが、思わず…。小生が切っ掛けを作ったのだと分かっています。レイチェル殿だって死んでしまう可能性があったのです。何かに襲われて死ぬのはとても怖いですから、それを思うとレイチェル殿を責めるのは違うと分かっています…分かっているのですが…。
「すみません、言い過ぎま…。」
「ごめんなさいっ。貴方から家族を奪ってしまった事は謝ります。でも、私たちも街を守りたいだけだったの。殺すつもりは全く無かったと言えば嘘になるけど、でも…命を奪うのが楽しいとかそんな事は絶対にないという事は知って欲しい……って、魔物さんに言っても分からない、よね…。ヒロト君に言い訳、したかっただけかも。」
小生に非があると感じたので謝罪しようとしたのですが、遮られてしまいました。
レイチェル殿はヒスイに向かって頭を下げ、話し掛けています。聞き様に因っては偽善者のようにも思えましたが、最後に言い訳をしたかったのだと小さく聞こえたのでレイチェル殿は信じても良いかと感じました。
ヒスイも全てを理解してはいない筈なのですがレイチェル殿へ歩み寄って頬を舐めました。
「ひ…っ、あ…、…触っても、大丈夫かな…?」
「えぇ、ヒスイから近付いたのですから。」
「ヒスイ君…、有難う。」
ヒスイの姿に未だ恐怖があるのか息を飲んだ様子でしたが、ヒスイに敵意が無い事を理解したのか小生に断ってからレイチェル殿はヒスイの頬を撫でました。
『ヒスイ、分かったのですか?』
『んー…分かんない。でも気持ちは、ちょっと分かった。この人、綺麗。』
『そうですか。ではお伝えする必要はないのですね。』
『ん。いらない。』
「ヒロト君…もしかして、お話出来る…の?」
「はい。ヒスイはレイチェル殿が綺麗だと言っていますよ。」
「え…っ!?は、恥ずかしいな…。」
ヒスイは野良ですから、母君が殺された事を受け入れています。強者が生き残るのは自然の摂理というものです。
それでも赦せるのは容易ではないでしょう。ヒスイは器が大きいのですね。
「あの、ヒスイ君、もう…、ぁ、ん……もう止めてぇぇぇっ。」
『あ。…ヒスイ、舐め過ぎです。レイチェル殿がふやけてしまいます。』
メヒテルト殿と共に微笑ましい光景と思って見ていたのですが、レイチェル殿が押し倒されてしまった上に悲鳴を上げてしまったのでヒスイを引き剥がしました。
ヒスイの唾液で濡れているレイチェル殿が少し可哀想な気がします。
「主人に似るのだろうな。…レイチェル殿、立てますか?」
「あ、はい。」
隣でメヒテルト殿に大きな溜息を吐かれました。
メヒテルト殿がレイチェル殿に手を貸して立ち上がるとレイチェル殿は綺麗に乾いていました。メヒテルト殿の魔法のようです。魔力の流れを感じましたが詠唱は聞き取れませんでした。
聞き取れなかった、というよりは言語の理解が出来なかったというのが正しいのでしょう。魔族とも人間とも違うような気がしました。
「メヒテルトさん、有難う御座います。」
「いえ、我が国にとって大切な方ですから。」
『ヒスイ、舐め過ぎですよ。』
『心が綺麗な人、甘い感じがする。美味しい。』
『…ヒスイが美味しいと言うとあらぬ誤解を招くので止めましょうか。』
『む?美味しい、ダメ?じゃあ好き。』
『その方が良いです。』
ヒスイが言うのですから、レイチェル殿は本当にお優しい方なのでしょう。
断りを入れてからヒスイの大きさを小さくして肩に乗せました。またレイチェル殿を舐め回してしまってもこの大きさなら被害は少ないでしょうから。




