第5話:深夜の潜入作戦と、裏帳簿の奪取
深夜二時。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った王宮の回廊は、冷たい夜気と重苦しい静寂に包まれていた。
私は『隠れ蓑』を頭からすっぽりと被り、息を潜めて冷たい石畳を裸足で歩いていた。靴音を立てないため、脱いだ靴は布袋に入れて腰に縛り付けてある。
廊下の角を曲がるたびに、巡回の衛兵が持つランタンの明かりが揺れる。だが、光が私の身体を透過して壁を照らすだけで、誰一人として私の存在に気付く様子はない。
(妖精王の魔道具、本当に大したものだわ……)
感心しつつも、私は気を引き締め直した。音や匂いまでは消せない。床を踏み抜いて軋ませたり、うっかり衛兵の鎧に触れたりすれば、即座に不法侵入者として捕縛される。
目指すは、本塔四階にある財務卿ヴァルガス伯爵の執務室だ。
重厚な扉の前には、二人の私兵が槍を構えて見張りに立っていた。昼間とは違い、夜間は合言葉がなければ鍵すら開けてもらえない厳重な警戒態勢だ。
(さて、どうやって開けさせるか……)
私は懐から、あらかじめ調理場から失敬してきた干し肉の切れ端と小石を取り出した。
廊下の反対側の暗がり、彫像の裏手に向けて、手首のスナップを利かせて小石を放る。
カツンッ、コロコロ……。
静寂を破る硬質な音が、廊下に響き渡った。
「……何の音だ?」
「おい、見てこい。鼠か、それとも不審者か」
片方の兵士が槍を構えて音のした方へと歩き出し、残ったもう一人の視線もそちらへと引きつけられる。
そのわずかな隙を逃さず、私は扉の真横へと滑り込んだ。
残った兵士の腰にぶら下がっていた大きな真鍮の鍵束。私は音を立てないよう慎重に指先を伸ばし、昼間ヴァルガスが使っていたのと同型の鍵をつまみ上げた。
兵士が背中を向けた一瞬の刹那、鍵穴へと差し込み、音もなく回転させる。
カチャリ。
「ん? おい、今カギの音が――」
兵士が振り返るより早く、私は猫のように滑らかにドアを数センチだけ押し開け、執務室の中へと滑り込んだ。
背後で「気のせいか……?」と呟く兵士の声とともに、ドアが再び閉められる。
(ふぅ……第一関門クリアね)
心臓の激しい鼓動を抑えながら、私は薄暗い執務室を見渡した。
カーテンは硬く閉ざされ、月明かりすら届かない漆黒の闇。私は手探りで壁伝いに進み、昼間確認した巨大な歴代国王の肖像画の前へと辿り着いた。
肖像画の額縁をそっと横へスライドさせると、冷たい鋼鉄の感触――隠し金庫が現れた。
記憶を掘り起こす。昼間、ヴァルガスが回していたダイヤルの動き。
右へ三回、左へ七回、右へ二回。
カチ、カチ、カチ……。
静かな部屋に、ダイヤルの爪が噛み合う微細な金属音が鳴る。
最後にレバーを押し下げると、プシューと密閉された空気が抜ける重い音がして、金庫の扉が手前に開いた。
棚の中央に鎮座していたのは、見覚えのある黒革の装丁のノート――本物の裏帳簿だ。
「あった……!」
震える手でそれを引き出し、パラパラと頁をめくる。
そこには、王宮の国庫から「資材購入費」「砦補修費」の名目で引き出された天文学的な額の金が、ヴァルガス個人の隠し口座や、隣国の闇商人の手へと流れていた記録が、びっしりと克明に記されていた。
そしてページの最下部には、キースの筆跡を模して偽造された『最終監査印』が、今まさに押されようとしている痕跡まで残されていた。
(やっぱり……! キースに全ての罪を擦り付け、横領犯に仕立て上げるための捏造だったのね……!)
怒りで指先が震える。
この男たちは、自分の贅沢と保身のために、真面目に働く一人の青年の人生と、その背後にある家族のささやかな暮らしを、塵のように踏み潰そうとしていたのだ。
許せない。
こんな理不尽が罷り通っていいはずがない。
私は裏帳簿を胸元にしっかりと抱え込み、金庫の扉を元通りに閉めた。
肖像画を定位置に戻し、部屋を出ようとドアノブに手をかけた――その時だった。
カチャリ。
外から鍵が開けられる音がした。
(っ……?!)
心臓が跳ね上がった。
素早く部屋の隅、大きな書棚の陰へと身を滑り込ませる。
扉が開き、ランタンの灯りと共に部屋に入ってきたのは――二人の男だった。
先ほどまで眠りこけていたはずの財務卿ヴァルガスと、総括室の係長ヘンリーだ。
「……ふん、こんな夜更けに呼び出すな、ヘンリー。明日の査問会の書類の確認なら、朝でよかろうに」
「滅相もございません、閣下。ですが、キースの野郎が先ほどから妙に落ち着き払っておりまして……万が一、何か証拠を嗅ぎ回っていないか不安になり、裏帳簿の保管を再確認しておこうかと」
「フン、あの貧乏文官に何ができる。帳簿は金庫の中だ、誰にも開けられんよ」
二人が肖像画へと歩み寄ってくる。
私は息を止め、壁にぴったりと背中を押し当てた。
姿は見えないはずだ。けれど、万が一にも足音や衣擦れの音を立てれば、即座に袋叩きに遭う。
ヴァルガスが肖像画を動かし、金庫の扉を開けた。
そして――中を覗き込んだ瞬間、豚のような悲鳴を上げた。
「な……ないっ?! 帳簿がないぞ!!」
「えっ?! そ、そんな馬鹿な! 先ほどまで確かに――」
「泥棒だ! 誰かが部屋に忍び込んだのだ! おい、衛兵! 衛兵を呼べッ!!」
怒号が轟き、ヘンリーが慌てて部屋を飛び出そうとした。
開かれた扉。廊下に響き渡る警報の鐘の音。
(今しかない!)
私は隠れ蓑をしっかり握り締め、脱兎のごとく二人の脇をすり抜けた。
私の起こした突風に、ヴァルガスが「ひっ、風……?!」と叫ぶ。
「扉を閉めろ! 誰も逃がすな!」
背後で怒声が響く中、私は夜の回廊を、胸に抱いた裏帳簿を抱きしめたまま、一心不乱に駆け抜けた。
★★★
翌朝。王宮の地下大講堂。
張り詰めた空気の中、キースの処分を決定する『臨時特別査問会』が開かれようとしていた。
壇上には、青ざめた顔で冷汗を拭いながらも、威圧的な態度を崩さないヴァルガス財務卿と、その取り巻きの貴族たちが並んでいる。
中央の証言台には、粗末なシャツ姿で背筋を伸ばし、静かに前を見据えるキースが立っていた。
「……被告人、キース・ヴァレンタイン」
進行役の文官が、冷酷に書類を読み上げる。
「貴様が過去三年にわたり、国庫から金貨五千枚相当を横領し、実家の借金返済に充てていた動かぬ証拠が挙がっている。弁明はあるか」
キースはフッと自嘲するように息を吐き、静かに口を開いた。
「何度言わせれば気が済むんです? その書類の筆跡は俺のものじゃない。横領など身に覚えが――」
「見苦しいぞ、貧乏人め!」
壇上からヴァルガスが机を叩いて怒鳴りつけた。
「盗人猛々しいとはこのことだ! もはや申し開きなど無用、貴様を即刻免職の上、辺境砦への永久追放とする!」
議長が木槌を振り上げ、絶望の判決が下されようとした、まさにその瞬間――。
バァァァァァンッッッ!!!!
講堂の重厚な大扉が、地鳴りのような音を立てて左右に蹴破られた。
「――ちょっと待ちなさいよ、豚貴族!!」
凛とした怒声が、天井の高い講堂中に木霊した。
全員の視線が一斉に扉へと集まる。
そこに仁王立ちしていたのは――髪を振り乱し、隈を作りながらも、眼鏡の奥の瞳を爛々と怒りに燃え上がらせた、王宮書記課の「超お局」こと、クララ・マクスウェルその人だった。
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