第4話:透明マントの潜入と、暴かれた毒
「……その取引、乗ったわ。王宮の腐った膿を、残らず暴き出してやるわよ!」
妖精王テンペストの手から黒い薄布をひったくるように奪い取ると、男は愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「かっかっか! そう来なくては面白くない。使い方は羽織るだけじゃ。ただし音と匂いまでは消えんからの、壁にぶつかったり派手に転んだりせぬよう気をつけよ」
そう言い残し、妖精王は風の一吹きとなって夜空の彼方へ消え去った。
屋上に一人残された私は、冷え込む夜風の中でその薄布――『隠れ蓑』を広げ、頭からすっぽりと被ってみる。
とたん、自分の爪先も、羽織っているカーディガンも、まるで最初から存在しなかったかのように視界から掻き消えた。手すりに触れれば確かな感触があるのに、鏡のように磨かれたガラス窓を覗き込んでも、そこには誰も映っていない。
(本当に……完全に透明人間になっているわ)
胸の奥で火がつく。
キースが不正蓄財の濡れ衣を着せられて左遷される?
あの男が家族のためにどれほど爪に火を灯すような暮らしをして、一見ふざけているようで書類の一行、数字の一桁まで完璧に監査しているかを、十年間隣で見てきた私が誰よりも知っている。
財務卿の裏金の穴埋めにスケープゴートにされるなど、冗談ではない。
「私の悪友を舐め腐った連中に、お局の底力を見せてやるわ」
私は足音を忍ばせ、夜の静まり返った王宮へと階段を駆け下りた。
★★★
翌朝、王宮書記総括室。
私はあらかじめ休暇届を提出しておき、姿を消した状態で執務室へと忍び込んだ。
誰もいないはずの空間から様子を窺っていると、定時を少し過ぎた頃、廊下から何やら楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「ねえ聞いた? 財務課のキース様、横領の疑いで今日査問会にかけられるんですって」
「まあ! あんなに気取っていたのに、やっぱり裏で汚いお金を弄んでいたのね」
「あの傲慢なお局・クララ主任の同期なんですもの、お似合いの末路だわ!」
入ってきたのは、昨日私が羽扇で懲らしめてやり、今朝には元の顔に戻してやったリリィと、その取り巻きの令嬢たちだった。喉元過ぎれば熱さを忘れるとはこのことだ。私の不在をいいことに、机に腰掛けて香水混じりの紅茶を啜っている。
(おのれ、小娘のくせに口が減らないこと……!)
私は音もなく背後に忍び寄ると、リリィの背中をドンと強めに小突き、彼女が持っていたカップに肘を引っかけさせた。
ガッシャーン!!
「きゃあああっ?! 熱いっ! 新調したばかりのドレスが!」
「ちょっとリリィ、いきなり何するのよ! 私の書類まで紅茶まみれじゃない!」
「ち、違うわ、誰かに背中を押されたのよ!」
「誰もいないじゃない! 自分の不注意を人のせいにしないで!」
醜い口論を始めた小生意気な娘たちに背を向け、私は本命の調査へと向かった。
向かうは本塔四階、財務卿の豪奢な執務室だ。
重厚な樫の木の扉の前には二人の衛兵が立っていたが、来客の給仕係がワゴンを押して入るわずかな隙間に、風のように滑り込む。
部屋の奥、豪奢な皮張りの椅子にふんぞり返っていたのは、樽のように太った財務卿ヴァルガス伯爵だった。
その前で平伏しているのは、総括室の係長――あの無能な貴族上司のヘンリーだ。
「……それで、ヴァルガス閣下。例の使途不明金の一件ですが」
「うむ。帳簿の改ざんは全て財務課のキース・ヴァレンタインが独断で行ったという筋書きで、報告書はまとまったな?」
「はっ! あいつは貴族とはいえ実家が極貧。金に困って宮廷資金に手をつけたと言えば、査問会の連中も疑いなく納得いたします」
ヘンリーの卑屈な笑みに、私は奥歯をギリリと噛み締めた。
やはり、自分たちの私腹を肥やすための横領を、全部キースに押し付ける気だったのだ。
「キースの奴、以前から私の裏帳簿の匂いを嗅ぎ回っておったからな。目障りな虫ケラめ、辺境の瘴気漂う最前線の砦へ左遷処分にして、二度と王都の土を踏めぬようにしてくれるわ」
ヴァルガス伯爵は醜悪な笑みを浮かべ、壁に掛けられた巨大な肖像画の裏側へと歩み寄った。
隠し金庫のダイヤルを回す指先。カチリと音がして開いた重い扉の奥から、一冊の黒革のノートが取り出される。
(……あれね。本物の裏帳簿!)
ヴァルガスは帳簿に目を通し、満足そうに頷くと、再び金庫へと戻した。
暗証番号の動きは、透明な私の目でしっかりと網膜に焼き付けた。
だが、金庫から盗み出すのは夜を待たねばならない。日中の執務室で金庫が勝手に開けば、さすがに怪しまれて警戒を強められてしまう。
(キースの査問会は明日の午後。今夜中に原本を押さえなければ間に合わないわ)
私は拳を握りしめ、一度執務室を抜け出した。
★★★
その日の夕暮れ。
王宮の地下倉庫の裏手、人通りの途絶えた石階段の隅に、人影が一つぽつりと座り込んでいた。
外套の襟を立て、伸びたプラチナブロンドの髪をくしゃりと掻きむしっている男。
キースだった。
いつもなら「お局様」と憎まれ口を叩いてくるはずの男が、手元の停職処分通知の紙切れを、ただじっと見つめている。
その横顔には、いつも浮かべている軽薄な仮面はどこにもなく、守るべき家族を抱えながら理不尽な権力に押し潰されようとしている、一人の不器用な男の悔しさと疲弊が滲み出ていた。
「……ったく。貧乏くじばっかりだな、俺の人生は」
ぽつりと漏らされた掠れた声が、冷たい夜気に溶けていく。
私は胸を締め付けられるような痛みを覚えながら、階段の数歩上に立ち止まった。
姿は見えない。けれど、私はすぐそこにいる。
(あんたは一人で抱え込みすぎなのよ、馬鹿キース)
今すぐ隠れ蓑を脱ぎ捨てて、「私が何とかしてやるから安心しなさい!」と怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られる。
けれど、今ここで声をかけても、何の解決にもならない。
証拠を掴み、奴らの前で裏帳簿を叩きつけてやってこそ、この男の未来を取り戻せるのだから。
キースが力なく立ち上がり、とぼとぼと夜の闇へ消えていくのを見届けた後、私は深く息を吸い込んだ。
「待ってなさいよ。今夜、あいつらの首根っこをへし折ってやるわ」
夜の帳が完全に下り、警備の巡回が最も手薄になる深夜二時。
『隠れ蓑』をしっかりと羽織った私は、誰もいない財務卿の執務室へと音もなく侵入を開始した。




