第3話:悪友キース
「よお、お局様。廊下でまた若手を泣かせてきたんだって? 相変わらず精が出ますねえ」
執務室の窓際で、長い足を机の上に投げ出して軽薄に笑っていたのは、同期の財務官――キース・ヴァレンタインだった。
プラチナブロンドの髪を無造作に流し、彫刻のように整った顔立ち。一見すると社交界を股にかける遊び人貴族のようだが、その実態は病弱な両親と祖父母、さらには下宿中の弟二人を安給料で養う極貧苦労人だ。
彼が「金のかかる本気の恋愛なんてまっぴらごめん、女と遊ぶのは金でケリがつく範囲だけ」とうそぶくのは、この複雑すぎる家庭環境のせいで、まともな令嬢が嫁に来てくれるはずがないと知っているからだった。
「他人の仕事を横取りして楽をしようとする不届き者に、ほんの少しお説教しただけよ。それよりキース、書類の山を片付けないとその足をへし折るわよ」
「手厳しいねえ。女の冷たさが骨身に染みるぜ」
キースは肩をすくめ、懐から小銭入れを取り出してチャリンと振った。
「遊興費が底をついちまった。次のボーナスまでサロンの可愛い子猫ちゃんたちはお預けだ。……なあクララ、今夜あたり俺の嫁に来る気はないかい?」
「ふん、毎度お馴染みの軽口ね。何を寝言言ってるのよ。オジジとオババが今さら、ごめん被るわ」
「相変わらず手厳しい。先が思いやられるぜ」
キースはひらひらと手を振って、定時退勤の鐘とともに席を立った。
その去り際、私はドレスのポケットからそっと羽扇を取り出した。
いつも私をからかってばかりのこの男。ちょっとの間だけ、その鼻っ柱をへし折ってやろうかしら。
私は扇の【裏】――黒い羽根をキースの背中に向け、パタパタパタと素早く三度仰いだ。
「友よ、ちょっとの間だけ醜男になって反省なさい」
★★★
翌日の昼下がり、王宮地下の職員大食堂。
「……おい、昨日のあれ、本当に効果あったのかしら」
トレイを持って席を探していた私は、向かいの席に座った男の顔を見て、危うくスープを取り落としそうになった。
目の前に座っていたのは、かつての宮廷一の色男ではなかった。
肌は土気色にくすみ、額には深い皺が刻まれ、鼻筋は潰れて目はどんよりと濁っている。まるであと二十年ほど年季の入った疲弊しきった中年男の姿だ。
周囲の若い女官たちも、通りがかるたびに「えっ、誰あの人……?」「キース様があんな老人に……?」と目を白黒させてヒソヒソと囁き合っている。
けれど当の本人は、まったく意に介した様子もなく、山盛りのパスタをフォークに巻き取っていた。
「キース……あんた、その顔……」
「ああ、急に老けちまってね。まあどんな美男子も寄る年波には勝てないってことさ。小野小町みたいな惨めな末路はごめんだから、今日から心当たりの女に片っ端から求婚してみることにしたんだよ」
「はぁ?! その顔で?!」
「女なんて一皮剥けばみんな同じだ、紅白粉の下はタヌキかキツネさ。甘い夢を見る歳じゃない。俺の大家族の面倒を見てくれるなら、誰でもいいんだよ」
あまりの身も蓋もない言い草に、私は呆れて自分のフォークを突き刺した。
「甘いわね。他人の大家族を養うタヌキやキツネがどこにいるのよ。しっかりなさい、玉の輿に乗れるなら遊び相手でいるものですか」
キースはジロリと私を見た。
★★★
そして二日後。再び職員食堂。
向かいの席に座ったキースは、さらにげっそりとやつれ果てていた。
配膳皿のパスタの量が不公平に私のほうが山盛りだったので、私は黙って自分の皿とキースの少なめの皿を交換してやった。
「……で、プロポーズはどうだったのよ?」
「九十九パーセント失敗だ」
「九十九?」
「もう一人、ご意向を伺っていない奴がいるんだ」
「振られるわよ」
「そう思うか?」
「保証するわ」
「じゃあ、やめとこう」
キースは自嘲するように肩をすくめた。
「いやあ、凄まじいのがいたぞ。『結婚しないか』って言ったら、『実は私、もう婚約者がいるの。貴方の奢ってくれるお茶代が惜しくて黙ってたのよ』だとさ。顔が変わった途端、この言われようだよ」
「……それは流石にルール違反ね。いくら遊びでも誠意が足りないわ」
思わず同情して眉をひそめると、キースはふっと視線を上げて、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「まだ当分、独身だな」
「そのようね」
「ところで、お前は身を固めないのか?」
「固めないわよ」
「随分とあっさりしてるな」
「今さら安売りできないもの」
「……値段によっては、売るのかい?」
至近距離で見つめ返され、心臓がトクンと不規則に跳ね上がる。
醜男の姿をしているはずなのに、その濁った瞳の奥にある真剣な光に、思わず息を呑んだ。
私は照れ隠しにジロリと睨みつけ、食べ終えた食器を持って立ち上がった。
そして、先を歩き去るキースの後ろ姿に向けて、ポケットの中で扇を【表】に返し、優しくパタパタパタと仰ぎ直した。
「前よりもいっそうハンサムにしてあげるわ、我が友よ」
★★★
それからあっという間に一ヶ月が過ぎた。
約束の満月の夜、私は王宮の屋上へと足を運んだ。
風が吹き荒れ、あの奇妙な妖精王テンペストが、フロックコートの裾を翻して舞い降りてくる。
「おお、娘ごよ! よくぞ約束通り扇を返しに来てくれたな。他の人間どもは皆、手に入れた宝で私利私欲の金儲けを始めて約束を破る奴ばかりじゃったぞ」
「人の物は返すのが人間のルールよ。色々と勉強させてもらったわ、ありがとう」
私が羽扇を差し出すと、妖精王は満足そうに頷いた。
だが、そのまま帰るかと思いきや、男はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべ、今度は黒く透き通るような薄布を取り出した。
「どうじゃ、もう一月、人間界の観察に付き合わんか? 今度はこの『隠れ蓑』を貸してやろう。これを羽織れば完全に姿が消え、あらゆる場所に忍び込んでどんな密談も盗み聞きできるぞ」
姿を消せる透明マント。
受け取るべきか躊躇った私の耳に、階下の回廊からざわめく声が届いた。
『――聞いたか? 財務課のキースが、不正蓄財の濡れ衣を着せられて左遷されるらしいぞ』
『財務卿の裏帳簿の穴埋めに使われたって噂だ……』
心臓が冷たく凍りつく。
私は妖精王の手から、迷わずその黒い布をひったくった。
「……その取引、乗ったわ。王宮の腐った膿を、残らず暴き出してやるわよ!」




