第2話:扇の実験と、お局様の気まぐれな恩恵
屋上から執務室へと続く長い螺旋階段を降りながら、私はポケットに手を突っ込み、中に収まった奇妙な扇の感触を確かめていた。
白と黒の羽根が編み込まれた『美醜の羽扇』。
表の白い羽で仰げば絶世の美男美女になり、裏の黒い羽で仰げば見るに堪えない醜悪な顔になる。
しかも自分自身には効果がない。
(まったく、なんの冗談よ。妖精王だか何だか知らないけれど、こんなインチキ魔道具で私の貴重な休憩時間を潰してくれたものだわ)
そうは思いつつも、頭の片隅で好奇心が疼くのを止められない。
もし本当に効果があるのなら、誰に使ってやろうか。
毎日ネチネチと嫌味を言ってくる財務課の課長か、それとも先ほど私を「行き遅れのお局」と罵ったリリィか。
そんなことを考えながら二階の渡り廊下に差し掛かったとき、向こうから小柄な見習い侍女が、お盆にハーブティーのポットを載せてトコトコと歩いてくるのが見えた。
スミレ色の髪を後ろで質素に束ねた少女――スーザンだ。
半年前に孤児院から王宮の雑用係として雇われたばかり。平民の十八歳。
取り立てて器量が良いわけでもなく、いつも自信なさげにおどおどしているが、誰に対しても礼儀正しく、お茶を淹れる腕だけは確かな真面目な子だった。
すれ違いざま、スーザンは立ち止まり、深々とお辞儀をした。
「クララ主任、お疲れ様です。……あ、あの、先ほど厨房で淹れたての鎮静ハーブティーをいただいたので、後で主任のデスクにもお持ちしますね」
他の若い令嬢たちの媚びへつらうような作り笑いとは違う、心からの気遣いと敬意のこもった眼差し。
思わず私の口元が微かに緩む。
(……よし。この子で試してみましょう)
「ありがとう、スーザン。楽しみにしてるわ」
私がそう言って微笑みながらすれ違った瞬間、ポケットからそっと扇を取り出した。
【表】の白い羽根をスーザンの後頭部に向けて、手首を返してパタパタと軽やかに三度仰ぐ。
ふわっ、と目に見えない甘やかな春風のような粒子が、スーザンの背中へと吸い込まれていった。
スーザンは「ん?」と首を傾げ、何事もなかったかのように廊下の突き当たりにある化粧室へと入っていった。
私は壁に背中を預け、腕を組んで待った。
十秒。二十秒。三十秒。
――キャアアアアアッッッ!
化粧室の奥から、けたたましい悲鳴が上がった。
直後、バタンと勢いよく扉が開き、両手で頬を押さえたスーザンが飛び出してきた。
「わ、私……! ど、どうして……?!」
廊下に駆け出してきたスーザンの顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
(……嘘でしょ?!)
そこにあったのは、先ほどまでの平凡でおどおどした少女の面影ではなかった。
透き通るような白磁の肌に、露をたたえた朝顔のように潤む大きな瞳。ぽってりとした桜色の唇に、光を浴びて艶やかに輝くシルクのような髪。
まるで宮廷画家に描かれた妖精の絵姿そのもの、社交界のどんな高位貴族の令嬢すら霞むほどの絶世の美少女がそこに立っていた。
慌てて走ってきたスーザンが、廊下で立ち尽くす私にドスンとぶつかる。
「す、すみませんクララ主任! 鏡を見たら、なんだかお化粧が……私、熱でもあるんでしょうか?!」
「あら……スーザン? 少しお化粧の雰囲気を変えたのね。とっても魅力的よ」
私が引きつりそうな笑みをなんとか取り繕って声をかけると、スーザンは真っ赤になって「そんな、からかわないでください!」と再び化粧室へ逃げ込んでいった。
羽扇の威力は本物だった。
それも、生半可な魔導具など足元にも及ばないほどの絶大な効果だ。
(あの子なら、近衛騎士団の若手や真面目な文官たちから引く手あまたになるわね。……いつも私に敬意を払ってくれたご褒美よ、せいぜい幸せにおなりなさい)
私は思わずニヤリと口の端を吊り上げた。
となれば、次にするべきことは一つしかない。
執務室に戻る途中、前方から優雅に歩いてくるリリィの姿が目に入った。
先ほど私に叱責されたばかりだというのに、すでに反省の色など微塵もなく、同僚の若い令嬢相手に私の悪口をまくし立てている。
「信じられます? ちょっと香水の領収書を紛れ込ませただけで、あんなにキーキー怒鳴るなんて! どうせあの人、今夜の舞踏会にも相手がいなくて悔しいから八つ当たりしてるんですわ!」
すれ違いざま、リリィは私を侮蔑の眼差しでチラリと一瞥し、挨拶すら交わさずに鼻を鳴らして通り過ぎようとした。
しかし思い立って、歩みを止めることなく、ドレスの陰で扇を素早く【裏】返した。
黒い羽根を彼女の背中に向け、力任せにガバガバガバッと三度仰ぐ。
「――っ、何かしら、今の寒気……?」
リリィが身震いしながら、髪の乱れを直そうと近くの姿見の前へ歩み寄った。
私は知らんぷりを決め込み、数歩離れた位置で足を止める。
姿見の前に立ったリリィが、手鏡を覗き込んだ、その瞬間――。
「…………い、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ?!?!」
王宮の回廊中に木霊するような絶叫が上がった。
鏡の中には、頬がげっそりとこけ、目の周りに不気味な黒ずみが浮かび、艶やかだったはずの肌一面にボツボツとした赤黒い吹き出物がびっしりと浮き出た、老婆のような怪物が映っていた。
「な、何これ?! 私の顔……! 私の顔があああああっっ!!」
取り巻きの令嬢たちも「ひぃっ、化け物!」と悲鳴を上げて後ずさる。
リリィは両手で顔を覆い、狂乱状態で床にへたり込んで泣き叫び始めた。
私は涼しい顔でその横を通り過ぎ、冷ややかな視線を一瞥だけくれてやった。
(二、三日はその顔で自分の傲慢さをじっくり反省なさい。反省の態度次第では元に戻してあげなくもないけれど……心を磨かない女に美しさを持つ資格なんてないのよ)
胸のすくような達成感に浸りながら、私は意気揚々と書記総括室の扉を開けた。
さて、次は誰を成敗してやろうか――と意気込んだところで、部屋の片隅から「よお、お局様」と、呆れるほど気の抜けた声が飛んできた。
窓際の席で、山積みの財務書類を雑に放り出し、椅子の背もたれに体を預けていたのは、同期の文官――キース・ヴァレンタインだった。




