第1話:王宮書記課のお局と、屋上の珍客
「クララ主任、この伺い書の決裁印、まだ押していただけないんですかぁ? 早くしてくれないと、今日の舞踏会の準備に遅れちゃうんですけどぉ」
王宮東回廊・宮廷書記総括室。
机の端に肘をつき、手入れの行き届いた爪を眺めながらそう宣ったのは、半年前にコネで入ってきた子爵家の令嬢・リリィだった。
私は羽ペンを走らせる手をピタリと止め、眉一つ動かさずに眼鏡を押し上げた。
「リリィ書記官。この備品費の内訳書、王宮厨房への『高級香油』購入名目で、なぜか貴女の私用香水とおぼしきブランドの領収書が混ざっていますけれど。帳簿の照合コードすら記入されていない書類に、私がハンコを押すとでもお思い?」
「なっ……! た、たかが書類の端っこのことですのに! 少し大目に見てくださったっていいじゃないですか! だからクララ主任は『行き遅れのお局』なんて陰口を叩かれるんですよ!」
「あら、事実を指摘されてお顔が真っ赤ですこと。職務上の横領未遂をごまかす暇があるなら、規程集を百回書き写していらっしゃい。それから――」
私は引き出しから分厚い帳簿の束をドンと机の上に叩きつけた。
「定時までにこの過去三年分の旅費精算書の検算を終わらせなさい。一銭でも合わなければ、今夜の舞踏会どころか、明日の朝まで居残りですからね」
「ひっ……! あ、悪魔……! 鬼女官……!」
半泣きになったリリィが書類を抱えて自席へ逃げ戻るのを見送り、私は静かに冷めたハーブティーを喉に流し込んだ。
私の名前はクララ・マクスウェル。二十八歳。
平民出の叩き上げで宮廷書記課に勤続十年、今や誰もが恐れる「王宮書記課の古狸」「超お局」である。
若い令嬢たちからは「婚期を逃した八つ当たり」と煙たがられ、腰掛け気分の若手文官からは「小言のうるさい鬼」と避けられている。
けれど、私に言わせれば泣き言を漏らす方が甘えているのだ。
後ろ盾のない平民が王宮で生きていくには、完璧な仕事と鋼の図太さを身につけるしかない。誰に嫌われようと、私の完璧な領分を侵させはしない。
「……はぁ。まったく、毎日毎日」
執務室の窓から差し込む風は、心地よい五月の薫風だった。
五年前はこの風に吹かれながら「そろそろ結婚相手を探すべきかしら」と焦り、十年前は周囲の視線を気にして縮こまっていた。
けれど二十八歳になった今となっては、もうどうでもいい。
仕事さえきっちりこなしていれば、給金は入るし、一人で美味しいエールを飲む自由もある。
午後の一時、手元の決裁書類が一段落したところで、私は席を立った。
「ちょっと屋上の空気を吸ってくるわ。十五分で戻るから、サボらないように」
青ざめる部下たちに釘を刺し、私は長い階段を上がって時計塔下の見晴らし台へと出た。
抜けるような青空と、遠くに広がる王都の街並み。
心地よい突風が私の栗色の髪を乱暴に撫でていく。
「ふぅ……せいせいするわ」
手すりに寄りかかり、大きく伸びをした、その時だった。
ヒュオオオオオッッ!!
突如、竜巻のような鋭い旋風が屋上を吹き抜けた。
バサバサと激しい羽音が鳴り響き、砂煙が晴れた私の目の前――手すりの上に、奇妙な男がひらりと降り立っていた。
「……は?」
緑色のフロックコートに、鳥の羽を編み込んだ奇抜な帽子。
背中には鷲のような巨大な翼を生やし、鋭い琥珀色の瞳で私を面白そうに見下ろしている。
「おお、娘ごよ。何やら世知辛い顔をして風に吹かれておるな」
威厳があるのかふざけているのか分からない、低く響く美声。
私は目を丸くしたものの、長年のお局生活で鍛えられた胆力のおかげで、悲鳴を上げる代わりに首を傾げた。
「……どちら様かしら。変装舞踏会の控え室なら、二階の東広間ですけれど」
「変装舞踏会だと? 無礼な奴め、私は風の妖精王テンペストじゃ」
妖精王。
お伽話に出てくる、気まぐれで人間界に災厄や奇跡をもたらすという上位存在だ。
「へえ、妖精王様がこんなお役所の屋上に何の御用ですの? 立ち入り許可証はお持ち?」
「驚かんのか! シラけた娘だな、まったく」
男は翼をパタパタと畳み、手すりの上に器用に胡座をかいた。
「森の奥に引きこもっておっては世の流行に乗り遅れるからの。下界の見学に参ったのじゃが、人間界の常識というやつがさっぱり分からん。そこでじゃ、娘ご。私に人間界の知恵や流行り廃りを教えろ。退屈を紛らわせる手引きをしてほしいのじゃ」
「お断りします。私は公務中ですので、退屈なお守りをしている暇はありません」
私が即座に背を向けて階段へ戻ろうとすると、背後から「待て待て!」と風が巻き起こり、行く手を塞がれた。
「ただでとは言わん! 面白い取引をしようではないか。人間は魔導具が好きじゃろう? これをひと月貸してやる」
妖精王が懐から取り出したのは、白と黒の羽根が交互に編み込まれた、小ぶりで優美な扇だった。
「……鳥の羽根をむしっただけの扇に見えますけれど」
「ふん、見る目がないのう。これは太古の古代遺物『美醜の羽扇』じゃ」
妖精王は得意げに鼻を鳴らした。
「表の白い羽で仰ぐと、どんな顔の者も絶世の美男美女に生まれ変わる。逆に裏の黒い羽で仰ぐと、どれほど美しい者も見るに堪えぬ醜悪な顔になるのじゃ」
「……は?」
「ただし、他人に使ってこそ効果があり、自分で自分を仰いでも効果はない」
妖精王はニヤリと唇を吊り上げ、私の手に無理やりその扇を握らせた。
「どうじゃ? 気に入らん奴を醜くして懲らしめるもよし、気に入った者を美しくしてやるもよし。お前の手腕を見込んで、ひと月後にここでまた会おう!」
「ちょっ、待ちなさいよ! 自分を美人にできない魔道具なんて持ってても――」
私の叫びも虚しく、突風とともに羽毛が舞い散り、妖精王の姿は跡形もなく消え去っていた。
屋上に残されたのは、五月の青空と、手の中に残る怪しげな羽扇、そして呆然と立ち尽くす私一人。
「……なんなのよ、まったく」
ため息をつきながら、私は扇をエプロンのポケットに突っ込んだ。
他人の美醜を操る魔道具、ねえ。
自分に使えないのは心底癪に障るけれど――。
(……まあ、ちょっと試してみるくらいなら、バチは当たらないかしら?)
階段を降りる私の口元に、ちょっぴり意地悪なお局の笑みが浮かんでいた。




