第一部:共鳴する業(ごう)と契約 2話 【赤と黒の境界】
ジークは影の中に佇み、低い声で呟いた。
守られるだけの女になど、興味はない。彼が求めているのは、過酷な運命の中でなお抗い続ける、その強靭な魂の輝きだ。
彼は冷徹な観測者の仮面を被り、クロエの戦いぶりを監視し続ける。だが、その胸の奥底では、かつて愛した女性の記憶と現在のクロエが混ざり合い、静かだが確かな熱を帯びた炎が燃え始めていた。ジーク自身、その熱が「守護」を超えた、より深い執着へと変わっていることにまだ気づいていない。
闇の中から現れた異形たちが、飢えた獣のようにクロエへ飛びかかる。
クロエは一歩も引かず、黒い霧の刃を円を描くように振るった。
「雑魚の群れもここまでくる圧巻ね」
鋭い斬撃が異形の腕を切り落とし、腐敗した肉片が撒き散らされる。彼女の動きは洗練されているが、どこか自暴自棄な荒っぽさがあった。霧の侵食で青白くなった頬に、戦いの熱で朱が差す。
だが、次々と現れる異形の数は異常だった。通路の角からも、天井の隙間からも、死に損なった魂の残滓が絶え間なく湧き出てくる。
クロエの呼吸が乱れる。霧の刃を振るう腕に、黒い血管のような紋様が浮き上がり、彼女自身の神経を焼き始めた。それでも彼女は刀を振るう、自身の能力をフルに使い、黒い禍々しい霧を纏わせ両断していく。しかし、異形の数は減らない。複数でいたはずの腫物(他の能力者)たちは、いつの間にかだれ一人として残っていなかった。
――視界が狭まる。限界だった。
黒い霧が刃の形を保てず、彼女の全身を呑み込もうとする漆黒の奔流となって周囲を粉砕し始める。
その時だった。
耳を劈くような高周波の共鳴音が、隔離区域の澱んだ空気を切り裂く。
二人の周囲で、襲いかかろうとしていた異形たちの肉体が、赤と黒の霧に包まれたかと思った瞬間、次々と破裂し、泥のような霧となって消えていった。
クロエの視界が、完全に赤く染まっていた。
カツ、カツ、と乾いた足音が響く。近づいてきたのは、銀色の髪に鮮やかな赤い瞳を持つ男だった。190センチを超える長身の彼は、足元で転がっている異形の残骸を無造作に蹴り飛ばし、不敵な笑みを浮かべる。
「……何をしたの。貴方、だれ?」
クロエの問いに対し、男は答えずにただ彼女を見下ろした。
「お前は俺の探している人かもしれないからな、ここで死なれては困る」
男はクロエの手首を乱暴に掴んだ。その瞬間、抑制を失ったクロエの霧が、身体にへばりつくように激しく舞い始める。
「こんな時に暴走!?」
慌てるクロエをよそに、銀髪の男はヒールを一度、力強く鳴らした。
――その瞬間、赤と黒の霧が爆発的に広がり、クロエの制御不能な霧を瞬く間に食らい、かき消した。
同時に、男の体から何かが、クロエの意思とは無関係に流れ込んでくる。
――共鳴。
滅多に起こることはなく、それも伝承と言えるほど曖昧なもの。能力者の間では存在すら疑われていた「共鳴」という現象が、今、目の前で起きていた。
男は彼女の耳元で、冷ややかな、だが確かに熱を孕んだ声で囁く。
「俺はただの観測者だ。……だが、今この瞬間からは、お前の『逃げ道』と言ってもいい」
共鳴圏の内側は、外部と切り離された絶対的な領域だ。ここにはギルドの監視も、死の恐怖もない。あるのは、赤と黒が混ざり合う、歪な安らぎだけだった。
「ギルドの連中は、お前を使い捨ての弾丸としか思っていない。あえて隔離区域に放り込んだのは、お前という特異点を、この腐った土壌で完全に枯渇させるためだ」
ジークの言葉に、クロエの眼光が鋭く走った。薄々感づいていた真実を、目の前の男にあっさりと口に出され、彼女の腹の底に冷たい怒りが渦巻く。
「……なら、貴方は? 私を拾って、何をさせようってわけ」
男は彼女の顔を覗き込み、少しだけ目を細めた。その瞳の奥には、彼自身もまだ名付けられない、古くからの執着と新たな情熱が混ざり合って揺れている。
「何もしなくていい。ただ……俺の目の前で、その魂を燃やし尽くせ」




