第一部:共鳴する業(ごう)と契約 1話 【死地への招待状】
灰色の埃が舞うギルドの廊下を、クロエは不機嫌に歩いていた。
長い黒髪を頭上で無造作に束ね、黒いジャケットの隙間から覗く白いシャツは、心なしか着崩れている。締まりのないネクタイを指で弄びながら、彼女はかかとで床を激しく鳴らした。
「最近、やりすぎたか……」
毒づく言葉は、彼女が手にした指令書に向けられたものだ。
今回の任務地は『隔離区域――セクター・ゼロ』。戻ってきた者はいない、正真正銘の死地である。そこへ派遣されるのは、クロエを含めた数名の能力者。共通点はただ一つ、ギルドにとって「腫れ物」であり、「素行不良」と見なされた者たちだ。
「……あいつ、また高ランクの依頼を独占して」
「やっと厄介払いができそうだぜ。あいつが消えれば、俺たちにもチャンスが回ってくる」
すれ違いざまに聞こえてくる悪意ある囁きを、クロエは鼻で笑い飛ばした。彼女がいなければ稼げると信じて疑わない、無能な能力者たちの群れ。高位ランカーとしての実力を見せつけても、所詮は数字と管理でしか人間を測れないこの場所に、愛着など欠片もなかった。
「能力がない奴らが、看板だけは立派に偉ぶる。つくづく反吐が出るな」
クロエは指令書を雑に折り畳み、黒いブーツのかかとを鳴らして出口へと向かった。
この任務を真面目に遂行するつもりなどない。適当に異形を狩るフリをして、ギルドの監視網から外れた場所へズラかる。それが彼女の出した答えだった。
しかし、それが「政府の犬」であるギルドが仕組んだ、彼女を完全に排除するための罠であることには、まだ気づいていない。
隔離区域の入り口、錆びついた鉄扉の前には、すでに他の「処分対象」たちが集まっていた。彼らの顔は、諦めと死の匂いで塗り潰されている。
クロエは深い溜息をつき、腰に下げた漆黒の刃に手をかける。
「……ま、せいぜい派手に散ってやろうじゃないか」
彼女が扉を押し開くと、中から流れ込んできたのは、異形たちが放つ腐ったエーテルの吐息と、かつての実験施設が抱える呪いの気配だった。
クロエの黒い髪が、微かな霧を纏って揺れる。
その時、彼女の背後で、冷ややかな視線が一点に定まった。
獲物を観察する捕食者のような、だがどこか懐かしい紅蓮の眼差しが、彼女の影を追っていた。
「……ああ、あれだ。お前ら目を離すな。俺の、俺が探し求めていたものかもしれん」
ジークが背後の影に短く命じた。彼の背後には、裏社会で彼の手足として動く者たちが控えていた。彼らはジークの唐突な関心に戸惑いながらも、無言で頷く。
クロエはそんな視線には気づくこともなく、鉄扉の向こう側――腐臭と静寂が支配する隔離区域へと踏み出した。
扉が閉まる直前、クロエの耳にかすかな風の音が聞こえた気がした。だが、振り返ってもそこには錆びついた壁と、垂れ下がる無機質なケーブルがあるだけだ。
「……気のせいか」
クロエは毒づきながら、ブーツの踵を鳴らして歩を進める。
この隔離区域は、かつてギルドが『魂のエネルギー化』を研究していた最前線の実験施設だった。建物は内側から蹂躙され、壁や天井は異形の粘液に覆われている。
先へ進むほどに、空気は濃い霧に変わり、クロエの神経を刺激した。
前方から、低く、引きずるような音が聞こえる。複数の異形だ。ギルドが「適当にこなせ」と言った任務は、最初から自分たちを食い殺させるための算段だったことを、クロエは肌で理解した。
(あいつら、私を殺して『高位ランカーの殉職』として処理するつもりか。随分と都合がいいな)
クロエは溜息をつくと同時に、ジャケットのポケットから乱雑に手を抜いた。その掌に、漆黒の粒子が集まる。
彼女の力が解放されるたび、身体を侵食する「痛み」が走る。だが、その痛みがなければ、自分がただの人間であることすら忘れそうになる。
闇の中から、無数の赤い眼が浮かび上がった。
クロエは薄く唇を歪め、黒い霧の刃を形成する。
「来な。どうせ死ぬなら、せめて派手にやってやる」
その瞬間、彼女の背後の闇が、不自然に揺らいだ。
ジークは影の中に身を隠したまま、彼女の背中を見つめていた。その瞳には、かつて守りきれなかった恋人と同じ面影と、決して失いたくないという歪んだ執着が混ざり合っている。
「さて、どう動く?」
ジークは影の中に佇み、低い声で呟いた。
守られるだけの女になど、興味はない。彼が求めているのは、過酷な運命の中でなお抗い続ける、その強靭な魂の輝きだ。
彼は冷徹な観測者の仮面を被り、クロエの戦いぶりを監視し続ける。だが、その胸の奥底では、かつて愛した女性の記憶と現在のクロエが混ざり合い、静かだが確かな熱を帯びた炎が燃え始めていた。ジーク自身、その熱が「守護」を超えた、より深い執着へと変わっていることにまだ気づいていない。
闇の中から現れた異形たちが、飢えた獣のようにクロエへ飛びかかる。
クロエは一歩も引かず、黒い霧の刃を円を描くように振るった。
「雑魚が!」
鋭い斬撃が異形の腕を切り落とし、腐敗した肉片が撒き散らされる。彼女の動きは洗練されているが、どこか自暴自棄な荒っぽさがあった。霧の侵食で青白くなった頬に、戦いの熱で朱が差す。
だが、次々と現れる異形の数は異常だった。通路の角からも、天井の隙間からも、死に損なった魂の残滓が絶え間なく湧き出てくる。
クロエの呼吸が乱れる。霧の刃を振るう腕に、黒い血管のような紋様が浮き上がり、彼女自身の神経を焼き始めた。
――視界が狭まる。
異形の咆哮が重なり、耳をつんざくようなノイズへと変わる。
(……やばい、引き出しすぎたか)
彼女の霧が限界を超え、制御を失いかけて暴走し始める。黒い霧はもはや刃の形を保てず、彼女の全身を呑み込もうとする漆黒の奔流となって、周囲の瓦礫を粉砕し始めた。
ジークは、影の中で眉をひそめた。
このままでは、彼女は獲物を屠る前に、自らの霧に食い尽くされる。
「ふん……見ていられん。独りよがりな舞踏も、そこまでだ」
ジークが影から踏み出す。
その一歩が地面に触れた瞬間、周囲の空間が赤く明滅した。
彼はクロエの背後へ一瞬で距離を詰め、暴走する黒い霧の中に、躊躇なく自らの手を突き入れた。
――赤と黒が激しく衝突し、隔離区域の空気が悲鳴を上げる。
「っ……!」
クロエが弾かれたように振り返る。その目に映ったのは、不敵に笑うジークの顔と、彼女の暴走を強引に引き剥がすような、鮮烈な赤い霧の渦だった。
「せっかくの最高傑作だ。俺の目の届かないところで消えるな」
ジークがクロエの手首を掴む。
その瞬間、二人の霧が混ざり合い、物理的な距離を超えて意識がリンクする。二人の鼓動が同期し、隔離区域全体を覆うほど巨大な『共鳴圏』が展開された。
周囲を埋め尽くしていた異形たちが、その圧倒的な圧力に耐えかねて、一斉に硬直する。
「お前は――」
クロエの問いかけは、共鳴する霧の轟音にかき消された。ジークはただ、彼女を抱き寄せるようにして、赤と黒の境界線の中に二人を閉じ込めた。




