第三部 最期の純愛 28話 【甘い日常の代償】
サリエールの境界線近く。灰色の空の下、かつての世界の遺物のようなクラシックカーが、林道にひっそりと佇んでいた。
前線基地の崩壊から数日。追っ手から逃れ、ジークの息がかかったこの隠れ家に身を寄せたことで、二人はようやく張り詰めた糸を緩めることができた。
クラシックカー特有の重厚なエンジンの余熱が、車内をほのかに温めている。この狭く、古びた空間こそが、今の二人にとっての唯一の聖域だった。
「……アキラから連絡だ。侵入経路の確保は順調に進んでいるらしい」
タブレットの画面を閉じたジークは、隣に座るクロエへと視線を移した。戦いの喧騒が嘘のような、静かな時間がそこには流れている。晴れて互いを唯一の存在と認め合った今、二人の間には以前のような「監視者と被験者」という壁は存在しなかった。
「アキラとカグヤは、本当に有能ね」
クロエはクラシックカーの革のシートに背を預け、窓の外の荒涼とした景色を眺めながら、ぽつりと呟いた。彼女の肌は相変わらず透き通るように白い。だが、ジークの鋭い観察眼は、彼女の首筋に時折、異形特有の微かな影が浮かんでは消えるのを見逃さなかった。
力が強まるほどに、彼女は「人間」から遠ざかっていく。その事実に、ジークの胸の奥で小さな恐怖が疼く。だが、今はそれを見せる時ではない。
「ああ。だが、一番優秀なのは俺たちの時間を作ってくれるあいつらの空気の読み方だな」
ジークは楽しそうに笑うと、クロエの肩を引き寄せた。
緊張が解け、柔らかくなったクロエの顔に、ジークは顔を寄せる。クラシックカー独特の車内の香りと、彼女の微かな残り香が混ざり合う。狭い運転席と助手席の境界線など、今の二人には無意味だった。
ジークはゆっくりと、クロエの唇を塞いだ。
昨日よりも、もっと深く。舌先を絡め、彼女の甘さを貪るように味わう。誓いを込めたその熱い口づけに、クロエの肩が小さく跳ねた。彼女はジークのシャツの襟を強く掴み、その逞しい身体に縋りつく。
やがて名残惜しげに唇が離れるとき、二人の間には濡れた銀糸が細く引き、官能的な余韻を残した。
クロエは荒くなった息を整えながら、羞恥で耳の先まで真っ赤に染め上げ、堪らずにジークの胸元へと視線を逸らした。
「……っ、ジーク。まだ、その……慣れないの」
その純粋で、どこか初々しい反応が、ジークにはたまらなく愛おしかった。ジークは彼女の顎を指先で優しく持ち上げると、射抜くような、それでいて溺れるほど優しい瞳で見つめた。
「何度キスしても、お前はいつもそうだな。……可愛い」
「からかわないで。……あなたは、いつだって平気そうな顔をして」
「平気なわけがあるか」
ジークはそう言うと、そっとクロエの手を取り、自らの左胸へと導いた。
彼女の掌越しに、肋骨を叩く激しい鼓動が伝わっていく。ドクン、ドクンと、それはいつもよりもずっと早く、騒がしく響いていた。慣れていないのはクロエだけではない。ジークの心臓もまた、彼女を想う熱で支配されているのだ。
「クロエ、俺はお前を失うのが怖い。今度お前を失えば、俺は狂ってしまうだろう。俺にとって世界なんてどうでもいい……お前さえいれば、どうでもいいことだ」
その言葉に、クロエは切なさと温かさを同時に感じた。彼女は再びジークの胸に顔を埋め、彼の力強く、そして自分と同じように早鐘を打つ心臓の音を聴く。
外ではアキラとカグヤが命を賭して道を切り開いている。この平穏は、長くは続かない。
だが、今の二人には、このクラシックカーの車内こそが、世界で一番安全で、甘美な場所だった。
「……愛してるわ、ジーク」
「ああ。地獄の果てまで、俺のそばにいろ」
二人は再び重なり合い、戦いの前の短い休息を、お互いの体温で埋め尽くした。




