第二部 真実の対峙 14話 【亡霊の街と、視線の先にある影】
ゲートが閉ざされ、装甲車のエンジンが止まる。要塞内部の無機質な空間には、外界の異形の咆哮も、国境付近の硝煙の匂いも届かない。あまりの静けさに、クロエは耳が痛くなるような錯覚を覚えた。
ジークが車を降り、助手席のドアを開ける。その一連の動作は洗練されており、かつてサリエールの街角で見た「ただの商人」のそれとは明らかに質が違っていた。ここでの彼は、紛れもなく頂点に立つ支配者だ。
「……随分と立派な城ね」
クロエの問いかけに、ジークは応えない。彼はただ、満足げな眼差しで要塞の奥へと歩き出し、当然のように自分についてくることを促す。
広大なエントランスを通り過ぎ、居住区へと向かう廊下を歩く。クロエは自分の足音が、床に響くたびに心細さを増していくのを感じていた。ふと、廊下の壁に飾られた一枚の絵画に目が止まる。それはクロエの知る「異形」がはびこる前の、デリフの栄華を描いた古い風景画だった。
クロエが立ち止まると、数歩先を歩いていたジークも足を止める。
「懐かしいか?」
「いえ……記憶にはないわ。ただ、不思議な違和感があるだけ」
ジークがゆっくりとこちらを振り返る。廊下の仄暗い照明が、彼の顔に複雑な陰影を落としていた。彼は一歩、また一歩と距離を詰め、クロエの目の前で止まる。手が伸びる。頬を掠める指先の冷たさが、今のデリフの気候以上に彼女を震わせた。
彼の瞳。その深い色の奥に、クロエは今まで見たことのないものを見た。それは彼女に対する慈愛や執着というよりも、もっと古い、何百年も前からそこにあり続けている「誰か」を呼ぶような、切実な渇望の色だった。
「どうして……そんな目で私を見るの?」
クロエは思わず問い質した。問い返してはいけないと直感していたにもかかわらず、その視線がまるで、自分という存在の皮を剥いで、その裏側にある何かを確認しようとしているように思えてならなかったからだ。
ジークの手が止まる。彼は薄く微笑んだが、その笑みはすぐに消えた。
「……疲れているんだな。長旅だった。まずは休息をとれ」
彼はそれ以上何も言わず、踵を返した。
背を向けて歩き去る彼の姿を見送りながら、クロエは自分の腕を抱きしめる。この要塞は、クロエにとっての安息所ではない。ここは、ジークが長い年月をかけて作り上げた「記憶の墓標」であり、自分はその中で、あるはずのない幻影を演じさせられる場所なのではないか――。
ジークが踵を返した先には、要塞の指揮室へと繋がる重厚な扉があった。彼は一度だけ足を止め、背後にいるクロエに簡潔に告げる。
「ここは俺が持つ拠点の一つに過ぎない。デリフの全権を掌握するための、ごく小さなチェスの駒だ」
その言葉は、彼がどれほどの広大な盤面を支配しているかを暗示していた。この荒廃した地ですら、彼の支配網の末端でしかないのだ。
「だが、お前にとっては一番安全な場所でもある。この国で何が起きようと、この壁の内側だけは例外だ」
彼は扉を操作し、さらに奥へと続く広間を露わにする。そこには、世界各地の研究所跡地をリアルタイムで監視するモニター群が、壁一面を埋め尽くしていた。無数の映像が、異形たちが蠢く廃墟の光景を映し出している。ジークはモニターに囲まれた部屋の中央で、再びクロエを振り返った。
「見ての通り、世界は病んでいる。俺は各地に拠点を置き、この汚染を掃除しているに過ぎない」
クロエはモニターを凝視した。世界中が同じように異形に侵食されている事実に戦慄する。そして、そのどれもが「研究所」という文字を冠していることに気づいた。
ふと、モニターの一角に、見覚えのある古いデリフの記録映像が映し出された。そこには、今の自分と瓜二つの姿をした少女が、研究員たちに囲まれている姿があった。鼓動が激しくなる。クロエは思わずモニターに手を伸ばそうとして、引き返した。
ジークの視線が、モニターとクロエの間を行き来する。彼の目には、今、この部屋に立っている生身のクロエと、モニターの中に焼き付けられた「過去の亡霊」が、重なって見えているのではないか。
「……私のこと、ちゃんと見てる?」
クロエの問いに、ジークは応えない。彼は静かにモニターの一つを消去した。部屋に、冷たい電子音だけが残る。
「休め、クロエ。ここはお前が『何者であるか』を知るための場所でもある」
ジークは指揮椅子に座り、再び世界という盤面の監視に戻った。取り残されたクロエは、巨大な拠点の静寂の中で、自分がこの場所に居場所を見つけられるのか、それともこの場所こそが自分を飲み込む檻なのか、分からなくなっていた。
地下から響く鈍い振動。それはジークの支配への呼応か、それともクロエ自身の血が求める記憶の震えか。彼女は、まだ誰もいない豪華な寝室へと向かう長い廊下を、震える足で歩き始めた。




