夢の目覚め
「おい悠、いつまで寝てんだよ。置いてくぞ」
声をかけても、ベッドの主は「んぅ……あと三世紀……」と寝言を漏らすだけで、毛布にくるまって芋虫のようになっている。
あれだけ暴れ回れば疲れも出るだろうが、流石に遅刻はまずい。
俺は何度か揺さぶったが、完全に「死んだように眠るガキ大将」と化した彼女を動かすのは不可能だと悟った。
「……勝手にしろ」
俺は諦めて、自分の準備だけを済ませてマンションを出た。
一人の登校路は、昨日の喧騒が嘘のように静まり返っている。
「……なんか、今日静かだな」
心なしか、走っている車の数も少ない気がする。
だが、昨日の疲労で俺の感覚が鈍っているだけだろうと自分を納得させ、校門をくぐった。
昇降口で靴を履き替え、教室へと向かう。
廊下は薄暗く、自分の足音だけが虚しく響く。
教室に入り、自分の席に座ってチャイムを待つが……一向に鳴る気配がない。
どころか、他の生徒が一人も来ない。
「……なんだこれ。ドッキリか?」
時計は確かに九時を回っている。
まさか、俺だけ別の世界線に迷い込んだのか。
夢を見ているのかと思い、右頬を思い切りつねってみる。
「……っつ、痛て……!」
涙が出るほど痛い。夢じゃない。
混乱しながら教室の壁を見渡すと、掲示板の隅に貼られた『年間行事予定表』が目に入った。
【5月26日 スポーツ大会】
【5月27日 振替休日】
「……あ」
血の気が引く音がした。
そうだ。昨日の今日だ。
あれだけ全力で体を動かしたんだから、翌日が休みになるのは当然の措置だ。
普段なら指折り数えて待つはずの代休を、昨日の怒涛の展開ですっかり忘却の彼方に追いやっていた。
静まり返った教室で、俺は一人、制服姿で呆然と立ち尽くした。
昨夜、悠が「起きる気配がない」のではなく、あいつは最初から今日が休みだと分かっていて、全力で眠りについていただけなのだ。
「……帰ろう」
誰もいない教室。
静まり返った廊下。
俺は自分の机にカバンを投げ捨てると、ニヤリと口角を上げた。
「けどこんな機会……ははっ、マジで誰もいねえし」
普段なら教師やクラスメイトの視線を気にしてできないことも、今日だけはこの「閉ざされた聖域」の主として振る舞える。
俺は立ち上がり、黒板の前に立った。
まず、チョークを手にする。
そして教壇をステージに見立てて、全力で「架空の演説」を始めた。
「諸君! 我々、茶色の福神漬け派閥は、断じて赤色の横暴に屈しない! 共に立ち上がろうではないか!」
誰に聞かせるでもない、馬鹿げたアジテーション。
黒板いっぱいに「茶色福神漬け万歳」とデカデカと書きなぐり、その横に、デフォルメされた赤い福神漬けを怪物として描き加える。
気が済むと、俺は教卓の上を滑り台のようにして飛び越え、窓際に陣取った。
あろうことか、禁止されているはずの机の上で、悠が毎日やっているような「ふんぞり返るポーズ」をとってみる。
「くっ……これ、意外と気分いいな」
窓から差し込む朝日に照らされ、俺はポケットからスマホを取り出し、誰もいない教室を背景に自撮りを始めた。
もちろん、全力の変顔で。
悠が見たら「気色悪いから殴る」と言いそうな、突き抜けた顔を何枚も連写する。
さらに掃除用具入れからホウキを取り出し、それをギター代わりにして、教室の中央で熱狂的なエア・ライブを開催した。
喉が枯れるまで架空のバンドを熱唱し、汗だくで机の間にダイブする。
「あー……っ、最高にアホだ、俺」
机の下に潜り込み、ゴロゴロと床を転がる。
埃の匂いと静寂だけがこの狂騒の代償だ。
昨日の代休というミスも、悠のいない孤独も、今は全部「笑えるネタ」に変換されていた。
誰の目も気にせず、誰に命令されることもない。
俺はこの広大な教室という舞台で、一人だけの王様だった。
……ただ。
ふと、机の上に残した俺の制服のブレザーが目に入る。
悠がいない教室は、広すぎて、少しだけ背中が寒かった。
あいつがいたら、今ごろ黒板の落書きを全部消されて、俺の頭をチョークで叩いているはずなのに。
俺は少しだけ、一人で暴れ回るのに飽きてきた。
ひとしきり暴れ回った疲労と、代休の朝の妙な静けさに当てられ、俺は机に突っ伏したまま眠りに落ちていた。
夢の中ではまだ俺が茶色の福神漬けの旗を振って、赤い軍勢を追い散らしていた気がする。
ふと、廊下を渡る風の音で目が覚めた。
「……ん、今、何時だ?」
顔を上げると、視界が少し霞んでいる。
スマホを確認すると、寝落ちしてから二十分ほどしか経っていなかった。
だが、そのわずかな間に、教室の「色」が変わっていた。
「……え?」
真っ先に目に飛び込んできたのは、あんなに熱を込めて書き殴ったはずの黒板だった。
俺の描いた「茶色の聖戦」も、デフォルメされた赤い怪物の絵も、跡形もなく消されている。
丁寧に、一点のチョークの粉も残さないほど綺麗に。
そして、その真っさらになった緑色のキャンバスの中央に鋭く、規律の取れた筆致でこう書かれていた。
『図書室に来なさい』
心臓がどくん、と跳ねた。
悠ではない。
あいつなら「バカ」とか「死ね」とか、もっと乱暴な言葉を付け加えるはずだし、何よりこんなに綺麗な字は書けない。
かといって、さっきまで夢の中で仲良く話していたクラスメイトたちの悪戯にしては、あまりに温度が低すぎる。
「……誰だよ、これ」
無人の教室に俺の引き攣った声が響く。
代休のはずの学校に、俺以外の「誰か」がいる。
しかも、俺がバカみたいにふざけ倒している姿をどこかで見ていたのかもしれない。
そう思うと、背筋にツララを差し込まれたような寒気が走った。
俺は震える手でカバンを掴み、消された黒板を一度だけ振り返ってから、教室を後にした。
廊下の静寂は、さっきまでの自由な空間ではなく、得体の知れない視線に監視された檻のように感じられる。
図書室は、校舎の最上階。
階段を一段上るたびに、手首のあの「傷」が、警鐘を鳴らすようにズキズキと疼いた。
最上階の図書室は、校舎の中で最も時間が止まっている場所だった。
重厚な木製の扉を押し開けると、高い天井に俺の足音が場違いなほど大きく反響する。
本の背表紙が並ぶ迷宮のような棚の奥、窓際の一角にその人影はいた。
「……あ、あの。黒板を見て来たんですけど」
俺がおずおずと声をかけると、脚立の上で本を整理していた少女がゆっくりとこちらを振り返った。
整えられた黒髪に、汚れ一つない制服。
彼女は驚くほどお淑やかな所作で脚立を降りると、スカートを整えて深く一礼した。
「お待ちしておりました、恭介さん。代休の日にまで登校されるとは、随分と熱心なのですね」
丁寧で、透き通るような声。
だが、その言葉にはどこか、薄氷を踏むような冷ややかさが混じっている。
「いや、その……予定を勘違いしてただけで。……黒板の文字、あなたが書いたんですか?」
「ええ。あまりに教室が賑やかでしたので、つい。……特に、茶色の福神漬けに関する演説は非常に独創的で、感銘を受けました」
「…………」
死にたい。
彼女は俺が誰もいないのをいいことに、ホウキを持ってライブを敢行し、床をのたうち回っていた姿をすべて見ていたのだ。
俺が顔を真っ赤にして絶句していると、彼女は薄く、慈悲深い女神のような微笑を浮かべた。
「安心してください。誰かに話すようなことはいたしません。ただ……あまりに無防備でしたので。灰崎さんが見ていなくて、本当に良かったですね」
彼女はそう言いながら、カウンターの上にある一冊の本を俺の方へ差し出した。
その細い指先が、俺の左手首を覆う袖を、一瞬だけ鋭く見つめた気がした。
「図書室は静寂を愛する場所です。……少しだけ、お話ししませんか? お一人で踊り疲れて、喉も渇いているでしょうから」
彼女はそう言って、どこからか淹れたての紅茶が入ったカップを取り出した。
悠の暴力的な熱さとは正反対の、静謐で、けれど逃げ場を許さないような優雅な空気。




