泣かぬカラスが夕闇に
「……あ、ありがとね、恭介君。本当、助かったよ」
女子生徒は赤くなった頬を隠すようにして、足早に保健室を後にした。
引き戸が閉まる乾いた音が静かな室内に響く。
俺は安堵とそれ以上に、重たい予感に救急箱を片付ける手がわずかに震えた。
「……いつまでそこに立ってんだよ」
振り返ると、夕日を背負った悠が入り口で立ち尽くしていた。
逆光で表情は見えない。
けれど、彼女が纏う空気はさっきの爆発的な怒りとは対照的に、不気味なほど冷え切っていた。
「……ねえ、恭介。あの子、なんて言ってた?」
悠が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
床を叩く上履きの音が、まるで処刑台へのカウントダウンのように聞こえた。
「別に……礼を言われただけだ。俺のせいで怪我したんだから、当然だろ」
「当然、か。……あんなに優しくして、あんなに顔を近づけて。私の知らない顔で、あんな女の膝に触ってさ」
悠の手が俺の胸ぐらを掴んだ。
昨日の男を殴った時と同じ、剥き出しの独占欲が彼女の瞳の中でどろりと渦巻いている。
「……っ、悠、離せ」
「離さない。……絶対、離さないから」
抗う間もなかった。
悠は俺を突き飛ばすようにして、白いシーツが敷かれたベッドの上へと押し倒した。
ギシリ、とスプリングが不快な音を立てる。
俺の上に跨った彼女の影が、視界のすべてを覆い尽くした。
「……その手に、別の女の匂いがついてる」
悠は俺の両手を掴み、自分の顔の近くへと引き寄せた。
鼻先を俺の掌に擦り付け、獲物を確認する獣のように深く、深く息を吸い込む。
「気持ち悪い。……私のじゃない匂いが恭介に染み付いてるのが耐えられない。……消してやる。今すぐ上書きさせてよ」
彼女の唇が俺の指先、そして掌へと乱暴に押し付けられた。
それは接吻というより、自分の所有印を刻み込もうとする、残酷なまでの儀式。
彼女の熱い吐息と、微かに震える唇の感触が脳を麻痺させていく。
「……っ、やめろ、悠……ここ、学校だぞ」
「関係ない。……恭介が悪いんだよ。私だけを見てろって、あんなに言ったのに」
悠の瞳から一粒の涙が零れ落ちて、俺の頬を濡らした。
怒りと嫉妬と、そして壊れそうなほどの不安。
かつてのガキ大将は今や愛に飢えた孤独な独裁者となって、俺のすべてを食い尽くそうとしていた。
保健室のカーテンが、春の終わりの風に揺れている。
オレンジ色の夕闇の中で、俺は自分の理性が彼女の狂おしいほどの熱に侵食されていくのをただ黙って受け入れるしかなかない。
すると、保健室の重苦しい空気を切り裂くように校内放送が閉会式への集合を促した。
俺たちは何事もなかったかのように身なりを整え、グラウンドへと向かう。
「……っ、痛っ」
俺はパーカーの袖を指先まで引き下げ、左手首を必死に隠した。
そこにはさっきの保健室で悠が刻み込んだ、三日月状の深い爪痕が残っている。
赤黒く腫れたそれは、まるで彼女の独占欲そのものが俺の肌に寄生しているようだった。
「……何、痛い顔してんの。我慢しなよ」
隣を歩く悠は驚くほど晴れやかな顔をしていた。
俺の爪痕を満足げに横目で確認し、まるで戦利品を見せびらかすような誇らしげな笑みを浮かべている。
「……お前なぁ。閉会式で整列するんだぞ。見つかったらどうするんだ」
「見せつければいいじゃん。みんなに教えてやりなよ。恭介はもう、私だけのものだって」
悠は俺の腕に体重を預け、周囲の生徒たちの視線を意に介さない様子で歩き続ける。
俺は周囲の目を気にしながら慎重に距離を保とうとするが、彼女はそれを許さない。
グラウンドに集まった全校生徒の熱気。
俺たちは、クラスの列へと潜り込んだ。
そこには、さっきまで俺と二人三脚を走ったあの女子生徒がいた。
「あ、恭介君! 大丈夫? 膝の具合はどう?」
彼女が心配そうに駆け寄ってくる。
その瞬間、俺の袖口からチラリと左手首の傷が覗いた。
「……えっ、恭介君の手首……その傷って」
女子生徒の顔が瞬時に強張る。
真っ赤に腫れ上がり、明らかに暴力的な手段でつけられた傷。
彼女は俺の顔と、遠くで冷ややかに笑う悠の顔を交互に見比べ、青ざめて一歩後ずさりした。
「……っ!」
「……ああ、これ? さっき転んだ時に、ちょっとね」
俺は必死に言い訳をしたが、女子生徒の目はそんな子供だましの嘘など信じていない。
彼女は俺たちの「二人だけの閉鎖的な空気」を悟り、恐怖に震えながらその場を離れていった。
「……ふふっ。あの子、逃げちゃったね」
近づいてきた悠が俺の耳元で甘く、冷たい声で囁く。
彼女の指先が俺の手首に残る傷をなぞる。
周囲の熱狂的な歓声とは裏腹に、俺の心は冷たい恐怖と逃れられない支配の悦びに沈んでいく。
閉会式の挨拶を聞くふりをしながら俺はただ、彼女から繋がれた手を離せなくなっている自分を自覚していた。
嵐のような一日が静かに、そして確実に幕を閉じようとしていた。
───
夕闇に包まれた通学路を俺たちは言葉少なく歩いた。
手首の傷はパーカーの袖の中でじくじくと熱を持っているが、悠の隣を歩く足取りはいつの間にか昨日までの重苦しさを脱ぎ捨てていた。
マンションの重い扉を開け、玄関の明かりを灯す。
「……ふはーっ! 疲れた! 腹減った!」
靴を脱ぎ捨てるなり、悠はリビングのソファにダイブした。
さっきまでの、あの保健室での狂おしいほどの情念や、閉会式での冷徹な独占欲はどこへ行ったのか。
そこに転がっているのは、ただの「腹を空かせたガキ大将」だった。
「おい、そこ座るな。砂が落ちるだろ。……風呂先に入れよ」
「やだ。飯が先。恭介、今日は約束通り特製カレーだろ? もちろん、あれは分かってるよな?」
悠はソファの上で寝返りを打ち、ニヤリと不敵に笑った。
その顔には昨日俺を困惑させた「女」の艶めかしさは微塵もなく、ただ俺を振り回して楽しんでいる幼馴染の顔があるだけだった。
「……分かってるよ。待ってろ」
俺は苦笑いしながら、キッチンへと向かった。
手首の傷を水で洗い流し、エプロンを締める。
野菜を切る音、肉を炒める香ばしい匂いが部屋を満たしていく。
このどこにでもある、けれど俺たちにとっての「日常」の音が、張り詰めていた空気を解きほぐしていく。
「なぁ、恭介。今日の二人三脚、お前たちマジで足並みバラバラだったな」
悠がキッチンを覗き込み、馬鹿にするように笑った。
「誰のせいだと思ってんだよ。遠くからあんな大声で怒鳴られたら、誰だってビビるだろ」
「あはは! まぁ、あの子も災難だったな。お前みたいなトロいやつと組まされてさ」
そんな中身のない、けれど心地よい罵り合い。
俺たちはお互いの境界線を踏み越えたり、引き返したりしながら、結局はこの距離感に落ち着くらしい。
「ほら、できたぞ。食え」
テーブルに並べられたのは、昨日の残りをベースにした少しとろみの増したカレー。
そして器の端には、これでもかというほど真っ赤な福神漬けが山盛りにされている。
「おっ、分かってるじゃん! いただきまーす!」
悠はスプーンを手に取り、豪快に口へと運んだ。
赤色の福神漬けが彼女の口元で鮮やかに跳ねる。
俺は自分の器に少しだけ残った茶色の福神漬けを噛み締めながら、ようやく静かな夜が訪れたことを実感した。
手首の傷はまだ消えない。
けれど、今夜のカレーの味はそんな痛みさえもスパイスに変えてしまうほど懐かしくて、温かかった。




