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7/10

背の目

 春の陽気は次第に熱を帯び、学校内は少しずつ「日常」のルーチンに染まっていった。

 だが、そんな平穏をぶち壊すように廊下の掲示板に巨大なポスターが貼り出される。


「……スポーツ大会、か」


 俺が呟くと、隣で悠が不敵な笑みを浮かべた。

 彼女の拳の傷はもうすっかり癒え、今は指先をパチパチと鳴らしてやる気を漲らせている。


「いいじゃん。恭介、お前は何に出るんだ? まさか、隅っこでチェスとか言わないよな?」


「高校のスポーツ大会にチェスなんてないだろ。……俺は無難にサッカーだよ」


「ふーん。じゃあ、私はバスケだな。……おい、恭介。約束しろ。もし私が活躍したら、今日の晩飯は『赤』の福神漬け山盛りの特製カレー、お前が作れよ」


「……活躍してもしなくても、どうせお前はうちに来るだろ。いい加減カレーにも飽きないのか?」


 俺が呆れて言うと、悠は「それはそれ、これはこれだ!」と笑い飛ばした。


 大会当日は雲一つない快晴だった。

 グラウンドや体育館からは生徒たちの怒号にも似た歓声が響き渡っている。


 俺は自分の試合を終え、汗を拭いながら体育館へと向かった。

 そこでは女子バスケの決勝が行われていたが、コートの中央で圧倒的な存在感を放っているのは、やはり悠だった。


「ほら、パス! 遅いんだよ、おまえら!」


 味方にまで毒づきながら、彼女はコートを縦横無尽に駆け抜ける。

 ポニーテールに結い上げた長い髪が激しい動きに合わせて躍動している。


 シュートを決めるたび女子席からは「悠さまー!」という黄色い悲鳴が上がり、男子席からは恐怖と称賛が入り混じった複雑な視線が注がれていた。


 ふと、悠の視線が観客席の俺を捉えた。

 彼女はニヤリと笑うと、わざとらしくユニフォームの襟をパタパタと扇ぎ、胸元の膨らみを強調するような仕草を見せる。

 周囲の男子たちの喉が鳴る音が聞こえた気がして、俺は思わず眉間にシワを寄せた。

(……あいつ、わざとやってるだろ)


「恭介ぇ! 見てろよ、これが『勝利』だ!」


 彼女が放ったスリーポイントシュートが綺麗な放物線を描いてリングに吸い込まれる。

 ブザーが鳴り響き、試合終了。


 悠は勝利の余韻に浸る間もなく、真っ直ぐに俺の元へと駆け寄ってきた。


「見たか? 文句なしのMVPだろ」


 彼女の顔は上気し、額には真珠のような汗が浮かんでいる。

 その健康的な色気と、隠しきれない独占欲に満ちた瞳。

 俺はタオルを彼女の頭に放り投げ、周囲の視線を遮るように彼女を促した。


「……ああ。凄かったよ。……ほら、早く着替えてこい。変な奴らがジロジロ見てる」


「へぇ? また嫉妬か? 恭介は本当に可愛いなぁ」


 悠はタオルの中からくぐもった、けれど最高に愉悦に満ちた声で笑った。


「……え、欠員?」


 サッカーの試合を終えて待機席に戻ると、クラスの女子たちが血相を変えていた。

 どうやら、このあと行われる『男女混合二人三脚』に出る予定だった男子が熱中症気味で保健室へ運ばれたらしい。


「お願い恭介君! 他に走れる男子がいないの!」


 クラスのまとめ役の女子に拝み倒され、俺は断る間もなくスタートラインへと引きずり出された。

 隣に立つのは悠と一緒にパンケーキを食べていた、あの陽気な女子の一人だ。


「よろしくね、恭介君! 息合わせて頑張ろう!」


「あ、ああ……お手柔らかにな」


 彼女は屈託のない笑顔で俺の腰に腕を回してきた。

 俺も彼女の肩に手を回し、二人の足を紐で結ぶ。

 密着する肩。時折ふれる腰の柔らかな感触。

 不意に漂う悠のものとは違う華やかな香水の香りに、俺の心拍数は嫌でも上がった。


 ……その時だ。

 グラウンドの端、待機席から突き刺さるような暴力的なまでの視線を感じた。


 見ると、そこにはバスケのユニフォーム姿のままこちらを「無」の表情で凝視する悠が立っていた。

 手には半分に握り潰されたペットボトル。


「……ひっ」


 俺の背筋に冷たいものが走る。

 だが、無情にもスタートのピストルが鳴り響いた。


「いっ、いち、に! いち、に!」


「恭介君、もっと内側に寄って! 離れると危ないよ!」


 陽気な彼女はぐいぐいと体を寄せてくる。

 だが、その光景を悠が見ていると思うと、俺の足は面白いほどに(もつ)れた。


「おい、恭介ぇ……! 何デレデレしてんだ、足並みが揃ってねーぞ!」


 グラウンドの脇から悠の怒号が響き渡る。

 応援というよりはもはや戦場での叱咤、あるいは処刑宣告だ。

 その威圧感に圧倒され、俺が足元を疎かにした瞬間——。


「あっ」

「きゃっ!」


 タイミングが完全にズレ、俺たちはもつれ合うようにして土の上に転倒した。

 俺の体の上に彼女が重なるような格好になる。


 周囲から「大丈夫か!?」と声が上がる中、俺の視界を覆ったのは土煙を割って現れた、憤怒の表情の暴君だった。


「……おい。いつまで重なってんだよ、猿共」


 悠は冷たく言い放つと、俺たちの足を結んでいた紐をまるで引き千切るような勢いで解き始めた。

 その瞳は笑っていたが眼球の奥にある光は、黒を持たない真っ赤な血液のように鮮やかで、そして深く淀んでいた。


「怪我したなら私が保健室へ運んでやるよ、恭介。……『お姫様抱っこ』でな」


 俺は転んだ痛みよりも、これから訪れるであろう「お仕置き」の時間に、心が悲鳴をあげる。


「おい、そこ! 部外者はコースに入るな!」


 俺たちの転倒現場に、血相を変えた審判担当の教師が飛び込んできた。

 悠は俺たちの足を結ぶ紐を解き終えたところで、背後からがっしりと羽交い締めにされる。


 それでも彼女は狂犬のように暴れ、俺を押し倒したままの女子生徒を鋭く睨みつけた。


「離せよおっさん! 恭介、助けろ! そいつを今すぐ私から引き剥がせ!」


「灰崎、お前はさっきのバスケで暴れすぎたんだ、少し頭を冷やせ!」


 先生に引きずられながら、悠はジタバタと足をバタつかせる。

 その姿はいつぞやの、シーンの再来だった。

 しわくちゃな顔で俺に手を伸ばし、絶叫しながら遠ざかっていく幼馴染を俺はただ地面に這いつくばったまま見送るしかなかった。


「……あはは、悠ちゃんてば本当に恭介君のこと大好きだね」


 重なっていた女子生徒が苦笑いしながら立ち上がる。

 俺は砂を払いながら、なんとか体を起こした。

 膝の擦り傷が少しだけ熱を持っていたが、それ以上に、去り際の悠のあの「独占欲の塊」のような表情が脳裏に焼き付いて離れない。


「……悪い、怪我はないか? 続けよう」


 俺たちは再び紐を結び直し、すでに他のペアがゴールを駆け抜けた後の静かなトラックを走り始めた。


 観客席からは遅れてきた俺たちへの温かい拍手と、それ以上に「灰崎、またやったな」という失笑が混じった声が聞こえてくる。


「いち、に。いち、に……」


 今度は足並みが揃った。

 けれど、隣にいる彼女の柔らかな感触よりも俺の頭の中は今ごろ職員室かどこかで絞られているであろう暴君のことでいっぱいだった。


(……あいつ、帰ったら絶対うるさいぞ)


 ようやく辿り着いたゴールテープ。

 一等賞の歓喜なんてどこにもない、砂の味のするゴールだった。

 俺は紐を解きながら、空を見上げた。

 今日の晩飯は山盛りにしても、あいつの機嫌は直りそうにない。


「……あ、痛っ」


 紐を解き終えたところで、隣の彼女が小さく声を漏らした。

 視線を落とすと、捲り上がった体操着の裾から覗く彼女の膝が派手に擦りむけていた。砂が混じり、じわりと赤黒い血が滲んでいる。


「おい、血が出てるぞ。……ごめん、俺のせいで」


「え? ああ、これ? 全然平気だよ! 転んだ拍子にちょっと擦っただけだし」


 彼女は明るく笑って、砂を払おうと手を伸ばした。

 だが、その傷口は意外と深く、放っておけばしっかり跡になりそうなほどだった。


(……悠にあんな風に凄まれて、それでも最後まで付き合ってくれたんだ)


 このまま「大したことない」で済ませるわけにはいかない。

 俺は昨夜の悠の独占欲を思い出し、一瞬だけ躊躇した。

 もしここで彼女を連れて保健室へ行けば、悠の逆鱗に触れるのは火を見るより明らかだ。


 けれど、それ以上に「怪我人を一人にするわけにいかない」というあの暴君から教わった(叩き込まれた)妙な責任感が勝った。


「ダメだ。砂が入ってるし、ちゃんと消毒しないと。保健室に行こう」


「いいってば! 恭介君だって膝、擦ってるじゃん。私、本当に大丈夫だから……」


 彼女は遠慮して一歩下がろうとした。

 だが、俺は彼女の細い手首を掴み、有無を言わせぬ力で引き寄せた。


「……あいつなら『怪我人は黙って従え』って言うはずだ。行こう、俺が運ぶ」


「えっ、運ぶって……ちょっ、恭介君!?」


 俺は彼女の意思を半分無視するようにして、その肩を抱き寄せ、支えるようにして歩き出した。

 周囲の「あ、またあいつら良い感じだぞ」という野次馬じみた視線が刺さるが、今は無視だ。


(……あいつ、絶対見てるんだろうな)


 校舎へと続く渡り廊下。

 そこから怒り狂った赤い龍のような気配が、職員室の窓を突き破って飛んでくるような錯覚を覚えた。

 けれど俺は掌に伝わる彼女の微かな震えと、自分の中に芽生えた「守らなきゃいけない」という男としての意地に、ほんの少しだけ背中を押されていた。

 保健室のドアを開ける。


「先生、いないみたいだな……。悪い、俺がやるからそこに座って」


「えっ、悪いよ! 自分でできるってば」


「怪我人は座れって。さっき俺が転んだせいなんだから、責任取らせてくれ」


 俺は半ば強引に彼女をパイプ椅子に座らせると、救急箱の中から消毒液と脱脂綿を取り出した。


 膝をついて、彼女の目の高さに合わせる。

 改めて見るその傷はやはり砂が入り込んでいて痛々しい。


「……ちょっとしみるぞ」


 俺は脱脂綿をピンセットで掴み、慎重に傷口へ近づけた。

 ふと見上げると、彼女が緊張したように肩を強張らせているのが分かる。


「……痛くないか?」


 できるだけ優しく、声を落として尋ねる。

 いつも悠に怒鳴られている俺からこんな気遣いの言葉が出るなんて自分でも意外だった。


「……ううん、大丈夫。すごく丁寧だね。恭介君の手って大きくて綺麗だね」


 彼女は少し顔を赤らめて、小さく微笑んだ。

 俺は傷口の砂を慎重に拭い去り、新しい脱脂綿に消毒液を染み込ませる。


「……これ、ちょっとだけ我慢してくれ。痛かったらすぐ言えよ?」


「……ん。……あ、……っ」


 消毒液が触れた瞬間、彼女が小さく声を漏らして俺の肩に手を置いた。

 華奢な指の感触。

 密着した二人三脚の時とはまた違う、静かな、けれど確かな異性の体温。


「……悪い。……痛いよな」


「……大丈夫。……ありがとう」


 俺は集中して、彼女の膝にガーゼを当て、テープで固定した。

 処置を終え、ふっと息を吐いて立ち上がったその時。


 カラン、とドアの取っ手が鳴った。

 振り返るまでもない。

 背筋を駆け抜ける、あの火の粉のような熱気。


 俺が他の女子の膝を覗き込み、その手を優しく握り、そして「痛くないか?」と囁きかけていた一部始終を。

 窓から入り込む夕日が、保健室の床に長く、巨大な影を落としていた。



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