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悪魔と悪魔

 彼女は優雅な所作でカップを口に運び、一口だけ喉を潤すと、伏せられた長い睫毛をゆっくりと持ち上げた。


「恭介さん。あなたは、ご自分が思っている以上に『注目』されていますよ」

「……注目?」

「ええ。昨日のスポーツ大会での出来事。そして保健室での……あの、独占的な儀式も」


 俺は喉を鳴らした。

 彼女の口から漏れる「儀式」という言葉が、あまりに現実離れしていて、それでいて真実を射抜いている。

 パーカーの袖の下で悠がつけた爪痕が再び熱を帯びるような気がした。


「灰崎悠さんという方は、非常に苛烈です。彼女の愛は対象を焼き尽くし、自分だけの灰にしてしまう。……あなたは今、その灰の一部になろうとしている。違いますか?」


 彼女の瞳は、まるで深い湖の底のように澄んでいて、俺の嘘を一切許さない。


 俺が言葉に詰まっていると、彼女はカップをソーサーに戻し、微かな音を立てた。


「私があなたをここへ呼び出したのは、単なる好奇心ではありません。……恭介さん、私と『契約』をしませんか?」

「契約……?」

「はい。私は灰崎さんのような剥き出しの暴力も、叫びを伴う独占も好みません。ですが……誰にも知られず、静かに、確実に『自分だけのもの』を愛でる愉悦は理解しております」


 彼女は椅子から立ち上がり、俺の背後に回った。

 背筋にひんやりとした冷気が這い上がる。


 彼女の手が俺の肩を通り越し、机の上に置かれた俺の左手首にそっと触れた。

 悠の熱い手とは違う、凍えるような指先の感触。


「灰崎さんの目は、あまりに鋭い。……ですが、この図書室という死角、そして代休という空白の時間であれば、彼女の目は届きません。……恭介さん、あなたが彼女に『壊される』前に私に少しだけ、その『破片』を預けていただけませんか?」


 彼女の目的。

 それは悠という暴君から俺を救い出すことではない。

 悠が支配する俺という存在の中から、彼女の目が届かない「秘密の領域」を切り取り、自分だけの標本にすること。


「……それが、私の望む『読書』の形なのです」


 彼女の声は耳元で毒のように甘く響いた。

 外では昨日の喧騒を忘れたような穏やかな太陽が照りつけている。


 対照的に、彼女の指先が手首の傷をなぞるたび、冬の夜のような冷たさが肌に染み込んでくる。

 だが、それ以上に俺の胸にざらりとした感覚を残したのは彼女が口にした言葉の端々に含まれる、悠への明確な「トゲ」だった。


「……アイツのことを焼き尽くすとか、壊すとか。さっきから随分な言い方ですね」


 俺は彼女の手をそっと振り払い、自分との間に距離を置いた。

 悠は確かに乱暴だ。独占欲も強いし、手加減を知らない。

 昨日だって俺が他の女子と話していただけであの騒ぎを起こした。


 でも、彼女が言うような「自分だけの灰にする」ような、そんな一方的で残酷なものじゃない――はずだ。


「おや。あんなに乱暴に扱われておきながら、彼女を庇うのですか?」


 図書委員の彼女は拒絶されたことなど気にも留めない様子で、再び優雅に紅茶を啜った。

 その動作の一つ一つが完璧すぎて、逆に人間味を感じさせない。


「庇うっていうか……あいつはただ、バカ正直なだけですよ。やり方は最悪ですけど、裏表はない。……でも、あなたは違う」


 俺は彼女の澄んだ瞳を見据えた。

 お淑やかで、丁寧で、誰に対しても礼儀正しい図書委員。


 けれどその皮を一枚剥げば、そこにあるのは悠への静かな見下しと、俺という存在を「標本」のように扱う歪んだ知性だ。


「彼女のような『野蛮な情熱』は美しい書物を破く子供のようなものです。せっかくの価値が台無しになってしまう。……私はただ、それが惜しいと申し上げているだけですよ」


 彼女はクスリと鈴を転がすような声で笑った。

 その笑い声が今はどうしても神経に障る。

 悠がガキ大将なら、この目の前の少女は静かに蜘蛛の巣を張って獲物を待つ捕食者だ。


「……悪いけど、俺は標本になるつもりはありません。そろそろ帰ります」


 俺が席を立とうとした、その時だった。


『――おい。そこにいるんだろ!恭介』


 図書室の重い扉の向こうから、地を這うような低い声が響いた。

 放送室から流れるアナウンスよりも鮮明に、俺の脳を揺さぶる声。

 代休で誰もいないはずの校舎に、あるはずのない「熱」が、猛烈な勢いで近づいてくる。


「……悠?」

「あら。案外鼻が利くのですね。……せっかくの静かな読書タイムが台無しですわ」


 図書委員の彼女は初めてわずかに眉をひそめた。

 そのトゲトゲしさが、今は隠しきれないほど剥き出しになっていた。


 廊下から響くあの聞き慣れた、けれど今は死神の足音のように聞こえる足音。

 悠がこの扉にたどり着くまでのわずか数秒の猶予。

 俺は目の前の「蜘蛛」のような少女に、どうしても聞いておかなければならないことがあった。


「……最後に一ついいか。あんた、名前は?」


 俺の問いに彼女はそれまで保っていた完璧な鉄の仮面を一瞬だけ崩した。

 目を見開き、意外なものを見たかのように微かに肩を揺らす。

 やがて彼女は視線を落とし、睫毛の影を頬に落としながら、消え入るような声で囁いた。


「……『白雪』と申します。白雪、奏。……恭介さんに名前を尋ねられるとは、計算外でしたわ」


 その白い頬が窓からの光とは違う、ほんのりとした熱を帯びたように見えた――。


 ――ドォォォォォンッ!!


 その瞬間、図書室の重厚な扉が蹴破らんばかりの衝撃音と共に弾け飛んだ。

 静寂という名のヴェールが物理的な暴力によって無残に引き裂かれる。


「……いた。見つけたぞ、恭介」


 入り口に立っていたのは肩で荒い息をつく悠だった。

 乱れた髪、激しい運動のあとのような上気した顔。

 だが、その瞳だけは凍てつく冬の海のように冷たく、昏い光を宿している。


 彼女の視線が俺とその隣に座る白雪、そしてテーブルに並んだ二つのティーカップを射抜いた。


「……代休の、誰もいない学校で。……お前、私を置いてこんな『地味な女』と茶をしばいてたわけか」


 悠の声は怒鳴るような激しさは一切なかった。

 逆に不気味なほど低く、静かだ。

 それが彼女の怒りが「沸点」を超え、純粋な殺意に近いものに変質していることを物語っていた。


「悠、待て。これは……っ」

「恭介は黙ってろ。……今、最高に気分が悪いんだ」


 悠は一歩、また一歩と白雪の方へ近づいていく。

 床を踏み締めるたびに、彼女の纏う赤色の覇気が、図書室の冷気を強引に塗りつぶしていく。


「お前さ……さっきから恭介にベタベタ触ってたよな? 反対側の棟から全部見てたんだよ。私のいないところで私のものに、随分と汚い手で触れてくれたじゃねえか」


 悠は白雪の目の前まで来ると、その綺麗な顔を覗き込むようにして低く、ドスの利いた声で言い放った。


「……今すぐここで『消して』やろうか?」


 白雪は、震えることもなく悠を見返した。

 静かな湖面のような瞳と、燃え盛る火炎のような瞳。


「……忘れられてるなんて、悲しいですね。偽物」


 白雪奏は悠の放つ圧倒的な威圧感を前にしても、眉ひとつ動かさなかった。

 それどころか、憐れむような、どこか慈愛に満ちた笑みさえ浮かべて悠を真っ向から見据える。


「かつての『ガキ大将』も随分と余裕がなくなってしまった。……恭介さんのすべてを縛り付けておかなければ、自分の存在意義さえ見失ってしまうほどに」


 悠の動きがぴたりと止まった。

 彼女の瞳に宿る怒りの炎が、一瞬だけ戸惑いに揺れる。


「……あぁ? 何知った風な口きいてんだ、お前。……誰だよ、さっきから」


 悠の言葉は本物の困惑に満ちていた。

 彼女にとって白雪奏という存在は、今この瞬間に視界に入った「邪魔な侵入者」程度の認識でしかない。


 名前も過去も、その執拗な視線の意味も悠は一ミリも覚えていなかった。

 その反応を見て、白雪はふっと今日一番の冷ややかな、けれど楽しげな笑い声を上げた。


「……ふふっ。そうですか。あなたは覚えてもいない。……私たちがかつてあなたの『駒』として、あるいは『獲物』として、どれほどその傲慢さに振り回されてきたかなど、これっぽっちも」


 白雪の言葉には恭介への執着とはまた違う、悠に対する根深いトゲが含まれていた。

 それはかつての「暴君」としての悠を知る者だけが持つ、歪んだ復讐心にも似た響き。


「誰だか知らないけど。……恭介に触れていいのは私だけなんだよ」


 悠は白雪の言葉を思考の外へ弾き飛ばすように、強引に俺の腕を掴んだ。

 その力は骨が軋むほどに強い。

 俺が隠していた左手首の「傷」のあたりを彼女の指が容赦なく圧迫する。


「行くぞ、恭介。……こんな気味の悪い女と、二度と口をきくな」


 悠は俺を引きずるようにして出口へと向かう。

 蹴破られた扉の横を通り過ぎる際、俺は最後に一度だけ白雪の方を振り返った。


 彼女は倒れた脚立の横に静かに立ち、俺たちが去っていく様子をじっと見つめていた。

 その瞳は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えない。

 ただ獲物が巣にかかるのを確信した、静かな「観察者」の目だった。

「……またいつか、恭介さん。……お忘れなく、あなたの『破片』はもう半分こちらにありますわ」



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