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嵐の帰還

 放課後の旧校舎へと消えていった二人。

 俺は自分の心臓が早鐘を打つのを感じながら、動けないままでいた。


 怒りと悔しさと、そして言葉にできない「汚された」という感覚が足元を泥濘に変えていたからだ。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 廊下の向こうから聞き慣れた足音が近づいてくる。


 「……あ、いたいた。恭介、待たせてごめん」


 悠だった。

 彼女はついさっき男に肩を抱かれていた時と同じ、屈託のない満面の笑みを浮かべて歩いてくる。

 だが一つ違うとすれば、身に覚えのない数滴の紅い血液の様なものが手とスカートに付着していた。


 「悠……お前、大丈夫か!?」


 駆け寄ろうとした俺の視界に、彼女の後ろからふらふらと現れた「影」が映り込んだ。


 「……あ、が……っ」


 それは、さっきの男だった。

 だが、その顔はもはや判別がつかないほどにボロボロだった。


 鼻筋は歪み、唇は大きく切れ、両目は腫れ上がってまともに開いていない。

 彼は壁を背に力なくその場にへたり込んだ。


 「……急に、暴れだしやがって……っ。あいつ、化け物……」


 男が震える声で漏らす。

 どうやら二人きりになった瞬間、悠は満面の笑みのまま、かつてのガキ大将としての本能を全開にして殴りかかったらしい。


 「……何驚いた顔してんの? 恭介」


 悠はへたり込んだ男を一瞥だにせず、俺の目の前まで来ると、首を傾げて覗き込んできた。

 彼女の拳は赤く腫れ、節々から血が滲んでいる。

 それは男の返り血か、あるいは彼女自身の皮膚が裂けたものか。


 「言ったじゃん。『いいよ』って。……あいつ、誰も来ないいい場所があるって言ったんだ。だから、思いっきりボコボコにしても誰にも邪魔されないかなって思っただけだよ?」


 彼女の瞳は一点の曇りもなく澄んでいた。

 あの時、男に体を預けていたのは従順さからではない。

 確実に、そして誰にも見られずに「獲物」を仕留めるための、残酷なまでの計算だった。


 「……恭介以外の男が私に触れるなんて、気持ち悪いじゃん。だから、ちゃんと消してきたよ」


 悠は血の滲む拳を俺の胸元にそっと当てた。

 パーカー越しに伝わるその拳の熱は、朝に繋いだ手の温もりとは違う、刺すような烈火のような熱だった。

 俺はボロボロになった男と、目の前で微笑む「美しき暴君」を見比べ、ただ息を呑むことしかできない。


 ───


 放課後の静まり返った保健室。

 外からは部活動に励む生徒たちの掛け声が遠く聞こえるが、カーテンで仕切られたこの空間だけは重苦しい沈静に包まれていた。


 俺は無言で悠の右手を自分の膝の上に乗せた。

 白く細いはずの指の付け根はどす黒く腫れ上がり、皮が剥けて痛々しく赤露わになっている。


 「……痛いか?」


 「別に。あいつの顔の方がもっとひどいことになってるし」


 悠はベッドに腰掛け、ぶらぶらと足を揺らしながら他人事のように言った。

 俺は消毒液を浸した綿棒で、その傷口を慎重に撫でる。


 ピクリ、と彼女の肩が揺れたが、強がりな彼女は決して声を上げない。


 「……あんな無茶して。あいつに何かされたらどうするつもりだったんだよ。肩抱かれて、ニヤニヤされて……。俺はお前が本当にあいつに付いていくのかと思って……」


 吐き出した言葉にはまだ消えない嫉妬と、情けないほどの不安が混じっていた。


 すると悠はふっと視線を落とし、低く、けれど地を這うような冷徹な声で呟いた。


 「……あいつ、言ったんだよ」


 「え?」


 「『あんな地味で冴えない野郎、お前には勿体ない。俺の方がお前を可愛がってやる』ってさ。……私の恭介のことを、ゴミみたいに言いやがった」


 悠の拳が俺の膝の上でぎゅっと握り締められる。

 傷口が開き、再び鮮血が滲んだ。


 「私が性的な目で見られるなんて、どうでもいい。そんなの今まで腐るほどあったし。……でも、私の恭介を馬鹿にする奴だけは絶対に許さない。あいつの口、二度とそんなことが言えないようにぐちゃぐちゃにしてやっただけ」


 彼女の瞳に宿っていたのは自己防衛の意志ではない。

 それはかつてガキ大将として俺を「子分」にしていた頃の、狂気にも似た独占欲。


 自分の「宝物」に泥を塗られたことに対する、苛烈な報復だった。


 「……悠、お前……」


 「恭介は黙って私に守られてればいいんだよ。……ほら、早く巻いて。その、茶色の福神漬けみたいな地味な包帯」


 「……これは普通の白い包帯だ。あと、お前が守られる側だって、さっき自分で言っただろうが」


 俺は溜息をつきながら、彼女の腫れ上がった拳に包帯を丁寧に巻き付けていく。


 赤く染まった彼女の拳。


 それは俺のために振るわれた、あまりにも重くてあまりにも身勝手な愛の形だった。


 包帯を巻き終えると、悠は満足げに自分の手を見つめ、それから俺の首に左手を回してぐいと引き寄せた。


 「……今夜もお前の家。いいだろ?」


 拒絶する言葉なんて、最初から持ち合わせていなかった。

 俺たちは放課後の夕闇に溶け込むように、二人だけの閉じた世界へと足を向けようとした。

 しかし、


 「灰崎! ちょっと来い!」


 保健室の静寂を切り裂いたのは、あの地鳴りのような生活指導の教師の声だった。


 悠は「ちぇっ、しつこいなぁ……」とわざとらしく肩をすくめて見せたが、その拳に巻かれた白い包帯が事の重大さを物語っている。

 彼女は俺の耳元で「また夜にな」とだけ囁き、嵐が去るように連行されていった。


 一人、教室に戻る。


 重い足取りで自分の席に座ると、そこには昨日のような刺々しい空気はなかった。

 代わりに戸惑いと、それ以上に「純粋な好奇心」を持った視線がいくつか注がれる。


 「ねえ、君……大丈夫だった?」


 最初に声をかけてきたのは、物静かそうな女子生徒だった。

 彼女の後ろには眼鏡をかけた男子と、少しおっとりした雰囲気の女子が続いている。


 彼らはあの「中心人物」たちのグループとは明らかに毛色が違う、穏やかな空気を纏っていた。


 「あ、ああ……。俺は、別に。怪我もこの指先だけだし」


 「灰崎さん、すごかったね……。あんなに怒るなんて。君のこと、本当に大切なんだろうね」


 眼鏡の男子が感心したように、けれど少しだけ引き気味に笑った。

 彼らは悠の暴挙を「怖ろしい事件」としてではなく、「特別な絆」の現れとして受け止めているようだった。


 「……あいつは、昔からああなんだ。極端っていうか、加減を知らないっていうか」


 俺が苦笑いしながら答えると、おっとりした女子が「でも、かっこよかったよ」と目を細めた。


 「悪い人たちを追い払ってくれたんでしょ? 私たち、実はあの人たちに絡まれるの、怖かったんだ。……教えてくれて、ありがとうね」


 「……いや、俺が何かしたわけじゃ」


 「そんなことないよ。君がいたから、彼女も動いたんでしょ?」


 それから、彼らと他愛もない話を続けた。

 最近の授業のこと、駅前にできた新しいカフェのこと、そして——。


 「え、福神漬けは茶色派なの? 珍しいね。私は絶対赤だな、あの甘酸っぱいのがいいんだよ」


 「……お前もか。俺の周りには赤派しかいないのか?」


 「あはは! 仲間だね!」


 そんな、なんてことのない会話。

 悠といる時の心臓を鷲掴みにされるような緊張感とは無縁の、等身大の高校生らしい時間。


 俺は自分がどれほど「普通」の交流に飢えていたのかを初めて自覚した。

 窓から差し込む西日はもうトゲトゲしくはない。

 優しく教室を照らす光の中で、俺は少しだけこの学校に自分の居場所を見つけたような気がした。


 だが、心のどこかで分かっている。

 この穏やかな凪は、あの「暴君」が戻ってくれば、一瞬でかき乱される運命にあるのだと。


 「おい、恭介ぇ……。ようやく終わったぞ。あの説教じじい、一時間も……」


 教室のドアが乱暴に開き、疲れ果てた表情の悠が戻ってきた。

 だが、俺の席の周りに数人の男女が集まり、和やかに笑い合っている光景を目にした瞬間、彼女の瞳にドロリとした暗い炎が宿った。


 「……あぁ? なんだよ、そいつら。恭介お前、私がいない間に何浮気してんだよ」


 悠はズカズカと足音を立てて詰め寄ると、俺の肩を抱き寄せ、周囲の生徒たちを射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけた。


 「そこの眼鏡! それに地味な女二人! 誰だよ。茶色の福神漬けみたいな地味な面しやがって! 私の恭介に気安く話しかけてんじゃねえよ!」


 あまりの毒舌に、俺は思わず頭を抱えた。

 せっかくできた友好的なクラスメイトたちを、一瞬で敵に回すような暴言。


 だが、俺が必死にフォローを入れようとするよりも早く、女子の一人がパッと顔を輝かせた。


 「わぁ……! 近くで見ると、灰崎さんって本当にお肌綺麗だね! 包帯巻いててもかっこいい!」


 「……は?」


 毒気を抜かれた悠が呆気にとられて固まる。

 すると、もう一人の女子も便乗するようにぐいぐいと距離を詰めた。


 「ねえねえその髪、自分でセットしてるの? すっごく似合ってる! さっきの男たちを追い払った時も私後ろで『王子様みたい……!』って感動しちゃった」


 「お、王子……っ? いや、私は別に……」


 「あ、もしかして照れてる? 可愛いー! 恭介君、灰崎さんって実はすっごくピュアなんだね!」


 「ピ、ピュアじゃねえ! 私は、もっと……こう、荒ぶる鷹のような……っ」


 女子二人は悠の両脇を固めるようにして腕を絡め、彼女の戸惑いなどお構いなしにファッションや化粧の話題で攻め立てる。


 さっきまでクラスを恐怖のどん底に陥れていた暴君が今や女子たちに囲まれ、しわくちゃな顔で「やめろ、離せ」と力なく抵抗するだけの存在に成り下がっていた。


 「……恭介、助けろ……。こいつら、距離感がバグってる……っ」


 「お前が言えた義理かよ。……まあ、仲良くしろよ。茶色の福神漬けも、意外と味があるだろ?」


 俺がそう言って笑うと悠は顔を真っ赤にして、女子たちに引きずられるようにして廊下へと連れて行かれた。


「恭介ぇー!」という断末魔のような叫びが遠ざかっていく。

 嵐のあとの凪をかき乱したのは、新しい風。

 どうやらこの絶対的な独裁者を攻略する方法は、力による対抗ではなく、圧倒的な女子のノリだったらしい。

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