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すり抜けた想い

 翌日、学校の空気は昨日までとは一変していた。


 正確には灰崎悠という嵐が周囲を拒絶する絶対零度の壁へと変貌を遂げていた。


 「おはよう、灰崎さん! 今日も暑いね」


 昨日鼻の下を伸ばして彼女を誘っていた男子の一人が廊下で悠に声をかけた。

 いつもの感じなら「あ? 暑苦しいんだよ、どけ」と乱暴ながらも言葉を返していたはずの彼女がそいつを視界にすら入れず、無機質な瞳のまま通り過ぎる。


 徹底していた。

 誰とも目を合わせず、誰の言葉にも耳を貸さない。

 ただ、俺が教室の入り口に立った瞬間だけその氷のような瞳に一瞬だけ熱が宿り、小走りで近寄ってくる。


 「……おはよう、恭介。来て」


 俺の袖を掴み、他の男子たちを汚物でも見るような冷たい一瞥で切り捨てて歩き出す悠。

 その極端すぎる変化に教室中が静まり返り、ひそひそとした囁き声が波のように広がっていく。


 「おい、灰崎さんどうしちゃったんだよ」


「あいつ、あのパッとしない奴に洗脳でもされてんのか?」


 不穏な空気が頂点に達したのは昼休みだった。

 俺が一人で手洗い場に向かおうとした時、背後から荒々しい足音が近づき、肩を強く掴まれた。


 「おい、てめぇ……。ちょっと面貸せよ」


 振り返るとそこにはあのクラスの中心人物の男がいた。

 取り巻きを引き連れ、顔を真っ赤にして俺を睨みつけている。

 その目はプライドを傷つけられた獣のようだった。


 「灰崎の奴、急に無視しやがって。挨拶してもシカトだ。……お前、昨日余計なこと吹き込んだだろ」


 男は俺の胸ぐらを掴み、壁に叩きつけた。

 背中に鈍い衝撃が走る。


 「『他の男と喋るな』とでも言ったか? あぁ? てめぇみたいな地味な野郎が独占欲こじらせてんじゃねーよ。あいつはお前の所有物じゃねえんだわ」


 「…………」


 男の言葉は図星だった。

 昨日の自分の醜い独占欲。

 それを忠実に、あまりにも極端に守り抜こうとしている悠の姿が脳裏に浮かぶ。


 「黙ってんじゃねえよ! 付き合ってもねぇくせに、あんな美少女を私物化してんじゃねえ! ……お前が言ったんだろ、白状しろよ!」


 男の拳が持ち上がる。


 周囲の生徒たちが遠巻きに見守る中、俺は逃げることも、謝ることもできなかった。

 自分が放った言葉の重さと、それを全身で受け止めてしまった悠の覚悟。


 その狭間で俺はただ、唇を噛み締めて男の瞳を睨み返した。


 「……何してんの? 恭介」


 背後から響いたのは聞き慣れた、けれど今は救いのように聞こえる声だった。

 胸ぐらを掴んでいた男の手がわずかに緩む。

 振り返るとそこには悠が立っていた。


 周囲を氷漬けにしていたさっきまでの無機質な瞳ではない。俺だけを見つめるいつもの少し意地悪で暖かい光を宿した瞳。


 その眼差しに俺は張り詰めていた糸がふっと切れるような安堵感を覚えた。


 (よかった……。こいつは、変わってない)


 俺は心の中で小さく息を吐いた。

 だが、その安堵は、次の瞬間に訪れる異様な光景によって無惨に打ち砕かれることになる。


 「おい、灰崎。いいところに来たな」


 胸ぐらを離した男が勝ち誇ったような薄汚い笑みを浮かべて悠に近づいた。


 「今からちょっと面貸せよ。ついてこい。誰も来ない、いい場所があるんだよ。そこでじっくり『お話』しようぜ」


 あからさまな誘い。

 下卑た下心が透けて見える、脅しに近い言葉。

 俺は反射的に悠の前に出ようとした。無視するか、あるいは「死ね、ジャガイモ」と一蹴するだろうと確信していたからだ。


 しかし、悠の口から飛び出したのは俺の予想を根底から覆す言葉だった。


 「うん、いいよ。行こう」


 満面の笑み。

 それは、かつて俺にだけ見せていたような屈託のない、太陽のような笑顔だった。


 俺は目の前の光景が理解できずに凍りついた。


 「……え?」


 「ほら、行こうぜ。灰崎ちゃん」


 男は調子に乗って悠の肩に馴れ馴れしく腕を回した。

 その太い腕が制服越しに彼女の柔らかな胸の膨らみに強く押し当てられる。


 悠は嫌がる素振りも見せず、むしろ楽しげに男に体を預けるようにして歩き出した。


 「ちょっ……待てよ、悠! 何考えてんだ!」


 俺の声は喧騒にかき消された。


 悠は一度も振り返らなかった。代わりに男がこちらに振り返る。


「あ、そうだ。『感想』は後でしっかり教えてやるよ。それまでは我慢しとけよなー」


 男の腕に抱かれ、その卑しい視線に晒されながら彼女は俺の知らない顔で笑い続けている。


 視界が歪む。

 胸の奥からせり上がってきたのは、猛烈な吐き気だった。


 昨日、俺に「寂しかった」と漏らしたあの唇が今、別の男に向けられている。


 俺が「他の男と喋るな」と言った、その反動なのか。

 それとも、これが彼女なりの「復讐」なのか。


 遠ざかっていく二人の背中を見つめながら、俺は自分の右手が爪が食い込むほど強く握りしめられていることに気づいた。


 掌に残っていたはずの彼女の熱は、今はもう、汚泥のような不快感に塗り潰されていた。

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