歪んだ独占欲
「やばい、あと五分……! 恭介、置いていくなよ!」
朝食の福神漬け論争に花を咲かせすぎた代償はあまりに大きかった。
俺たちは半乾きの制服をなびかせ、駅へと続く坂道を猛ダッシュで駆け抜けていた。
春の穏やかな陽光が、今は恨めしいほど体力を削ってくる。
「……はぁ、はぁ……っ、待て……! 恭介!」
背後で悠の声が目に見えて弱まった。
振り返ると、俺のパーカーを羽織ったままの悠が膝に手をついて肩を激しく上下させている。
元ガキ大将の体力自慢も、女子の身体と急激な成長によるバランスの変化には勝てないらしい。
「おい、悠! 止まるな、正門が閉まるぞ!」
俺は数歩戻り、迷うことなく彼女の手を掴んだ。
昨夜の「あーん」や、今朝の「シャツ一枚」の時のような躊躇いはなかった。
ただ、遅刻を回避するという一点のみに突き動かされた行動だった。
「……っ!?」
悠の体が、ビクリと跳ねた。
パーカーの長い袖口から覗く、彼女の細すぎる手首。それは昔見た時よりも細く見える。
そこから伝わってくる体温は全力疾走の熱気だけではない、もっと芯の方にある彼女自身の「生」の熱だった。
柔らかい。
そして、驚くほど熱い。
俺の大きな掌が彼女の華奢な手を包み込む。
パーカーの生地越しであっても彼女の脈動が、指の節々が、そして確かな存在感が、ダイレクトに脳へと突き刺さってきた。
「……恭介」
掠れた声で名前を呼ばれ、俺は言葉を失った。
いつもの不敵な笑みも、男勝りな虚勢もそこにはなかった。
俺の背中を見つめる彼女の瞳は潤んで、熱を帯びて、ただ一人の少女として俺を頼っていた。
(……なんだ、この熱は)
繋いだ手から、言葉にできない感情が流れ込んでくる。
幼馴染。親分と子分。
そんな単純な言葉では片付けられない、得体の知れない何かが坂道を駆け上がる足取りを重くさせる。
「……黙って付いてこい、悠」
俺は顔を真っ赤に染めながら、さらに強くその手を握りしめた。
彼女が小さく「……うん」と頷いたのが、風に乗って聞こえた気がした。
正門が見えてくる。
チャイムの音が遠くで鳴り響く中、俺たちは一つの熱の塊となって、春の嵐のように校舎へと滑り込んだ。
息を切らして教室に滑り込み、ホームルームのチャイムと同時に席に着く。
隣のクラスへ戻っていった悠の、去り際の少し上気した顔が脳裏に焼き付いて離れない。
繋いだ手の熱がまだ右手の掌に残っているような錯覚さえ覚える。
「……はぁ、間に合った」
机に突っ伏して呼吸を整えていると、不意に影が落ちた。
顔を上げると、そこに立っていたのは昨日カラオケにしつこく勧誘していた、あのクラスの中心人物気取りの男だった。
「よぉ、朝から熱かったね。お前ら、付き合ってんの?」
男はニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、俺の顔を覗き込んできた。
周囲の数人も、興味津々といった様子でこちらを伺っている。
「……別に、そんなんじゃない。幼馴染なだけだ」
俺は努めて冷淡に事実だけを告げた。
付き合っているなんて誤解されたら、悠の学校生活に支障が出るかもしれない。
何より、あんな暴君と恋人同士だなんて冗談じゃない。
だが、俺の否定を聞いた瞬間、男の目が嫌な光を帯びた。
「へー、そうなんだ。幼馴染ねぇ……。ま、お前みたいな奴には勿体ないと思ってたんだよ」
男はポケットに手を突っ込み、教壇の方をチラリと見てから、声を潜めて続けた。
「俺、女の子大好きなんだよね。特にあの子、顔もいいし……何より、おっぱいでかいじゃん。ああいうタイプ、マジでストライクなんだわ。付き合ってないなら、俺が告ろっかな」
耳を疑った。
こいつは今、悠を単なる「肉の塊」としてしか見ていない。
あの誰よりも真っ直ぐで寂しがり屋で、泥だらけで笑っていた悠を。
「……は?」
思わず、低く湿った声が出た。
自分でも驚くほど腹の底からどす黒い感情がせり上がってくる。
握りしめた右手の拳が怒りで小さく震えた。
「なんだよ、その顔。怖いなぁ」
男は怯むどころか、さらに俺を煽るように肩をすくめた。
「だって、お前ら付き合ってないんだろ? 誰が誰を好きになろうが、誰に告白しようが自由じゃん。お前なんかに止める権利なんてあんの?」
「…………」
言葉が出なかった。
正論だ。
俺は彼女の彼氏でもなければ、所有者でもない。
ただの子分で、弟分で、振り回されるだけの幼馴染。
「……ま、せいぜい応援してくれよ。あ、付き合えたらお前が想ってた分まで可愛がってやるからさ」
男は勝ち誇ったように俺の肩を叩き、自分の席へと戻っていった。
怒りと、それ以上に情けないほどの無力感が俺を支配する。
机の下で、ガーゼの巻かれた指先がズキリと疼いた。
真っ赤な福神漬けのように、視界がジワリと熱くなる。
俺はただ黙って、隣のクラスにいるはずの嵐のような少女のことを考えていた。
───
放課後の教室は西日が差し込んでオレンジ色に染まっていた。
クラスメイトたちが仮入部の部活や遊びへと散っていく中、俺は一人、重い足取りで悠のクラスへと向かった。
脳裏にはあの男の卑俗な笑い声がこびりついて離れない。
「お、恭介! 帰るぞ。今日は何食う? ハンバーグか? それともまたカレーにするか?」
教室から出てきた悠は朝の猛ダッシュの疲れなんて微塵も感じさせない、眩しい笑顔を向けてきた。
その無防備な姿を見るたび、あの男の「おっぱいでかいし」という言葉が泥のように俺の心に沈殿していく。
「……悠、帰るぞ」
「なんだよ、不機嫌だな。指、まだ痛むのか?」
悠が心配そうに俺の左手を覗き込もうとした、その時だった。
廊下の向こうからあの男が数人の仲間を引き連れて、品定めするような視線を悠に投げて通り過ぎた。
ニヤニヤと目配せし合う奴らの姿に俺の中の何かが音を立てて切れた。
校門を出て、人通りの少なくなった通学路。
俺は立ち止まり、前を歩く悠の腕を怪我をしていない方の手で強く掴んだ。
「……っ、恭介? 急にどうしたんだよ。痛いって」
「悠。お前、もう他の男と喋るな」
吐き出した言葉は自分でも驚くほど低く、震えていた。
悠は目を見開いたまま、固まった。
夕日に照らされた彼女の瞳が困惑と驚きに揺れている。
「は……? 何言ってんだよ、急に。冗談だろ?」
「冗談じゃない。……あんな奴らの視線に晒されるくらいなら、誰とも話すな。俺のそばにだけいろ」
言ってから自分の言葉の異常さに気づいた。
これは子分のセリフじゃない。
ましてや、ただの幼馴染が踏み込んでいい領域でもない。
独占欲。
醜くて、泥臭くて、真っ赤な福神漬けよりも毒々しい感情が口から溢れ出していた。
悠は掴まれた腕を振り払おうとはしなかった。
ただ、じっと俺を見つめていた。
いつもなら「バカじゃねーの!」と笑い飛ばすはずの彼女が、唇を小さく震わせ、顔を赤く染めていく。
「……恭介。それ、どういう意味で言ってんの?」
「…………」
「『俺のそばにいろ』って……。それって私が他の誰かに取られるのが嫌だってことか? ……それとも、ただの束縛か?」
悠の声からいつもの強気な響きが消えていた。
代わりにそこにあったのは一人の少女としての、切実な問いかけ。
俺は答えられなかった。
掴んでいた手の力がじわりと抜けていく。
春のぬるい風が二人の間に流れる重苦しい沈黙をかき乱した。
あの日唇を奪ったのは悠だった。
けれど今、二人の関係の境界線を踏み越えたのは間違いなく俺の方だ。




