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見覚えのない天井

 ドスン、という鈍い衝撃と背中に走る冷たい感触で目が覚めた。


 「……いたっ」


 視界に入ってきたのは見慣れた天井ではなく、自分のベッドのフレームとその下に溜まったわずかな埃だった。


 どうやら俺は自分の聖域であるはずのベッドから無残にもフローリングへと叩き落とされたらしい。

 寝ぼけ眼で這い上がり、ベッドの上を確認する。


 そこには大の字になって俺のスペースを完全に占領している灰崎悠の姿があった。


 「……すー……、すー……」


 昨夜のしんみりした空気はどこへやら。

 悠の寝相はガキ大将時代を彷彿とさせる豪快さだった。


 シーツは引き剥がされ、俺の枕は彼女の足に挟まれている。

 おまけにシャツの裾が捲り上がって、白い腹部が無防備にさらけ出されていた。


 「おい、悠。起きろ。学校遅れるぞ」


 俺は恐る恐る彼女の肩を揺さぶった。

 怪我をしている左手を使わないよう、慎重に。


 「……んぅ……。あと、五分……。恭介、セミ捕りに行くぞ……」


 「いつの時代の話だよ。ほら、起きろって!」


 何度か声をかけると、悠は「ふにゃ……」と締まりのない声を出しながら、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


 焦点の定まらない瞳が俺を捉え、それから自分が占領しているベッドの状況を把握したらしい。


 「……あ。恭介、なんでそんなとこに座り込んでんだ? 筋トレか?」


 「お前が蹴り落としたんだよ! どんだけ寝相悪いんだよ、お前は」


 俺が呆れ果てて言うと、悠は「へへっ」と照れくさそうに頭を掻いた。

 その拍子に捲り上がっていたシャツから女の子らしい柔らかな曲線がさらに露わになる。


 「……っ、おい。服、直せよ」


 俺が顔を背けて指摘すると、悠は自分の格好に気づいたのか一瞬だけ動きを止めた。

 ……が、すぐにいつもの不敵な笑みを取り戻し、わざとらしく胸を張ってみせる。


 「なんだよ。今更だろ? それとも、恭介のくせに意識してんのか?」


 「……うるさい。さっさと準備しろ。朝飯はパンで済ませるからな」


 俺は逃げるようにキッチンへ向かった。

 背後から「あ、昨日の赤い福神漬け、トーストに乗せようぜ!」という正気を疑うような提案が飛んできたが、それは全力で無視することに決めた。


 鏡に映った自分の顔は寝不足のせいか、あるいは別の理由のせいか、ほんのりと赤みが差していた。


 「……そういえば」


 台所で食パンの袋を手に取った瞬間、自分の肌にまとわりつくわずかな不快感に気がついた。

 昨夜は悠の襲来と指の怪我、そしてあの「告白」のせいで風呂に入るという当たり前の工程を完全に失念していたのだ。


 時計を見ると、幸いにも予定より少し早く起きることができている。


 「悠、起きたなら先にシャワー浴びてこいよ。俺は朝飯の準備してるから」


 ベッドの上でまだ髪をボサボサにさせたままの悠に、俺は努めて冷静に声をかけた。

 すると彼女はニヤリと口角を上げ、わざとらしく自分の肩を抱いて身をよじった。


 「へぇ? 恭介、もしかして……私の残り湯を堪能したいってわけ? 案外隅に置けないやつだな、お前も」


 その挑発的な視線。


 昨日からの「女」を武器にした攻撃に、俺の心拍数は一瞬だけ跳ね上がる。

 だが、すぐに冷静さが勝った。


 「……何言ってんだ? 朝から浴槽に湯なんて溜まってるわけないだろ。シャワーだよ、シャワー。真面目に言ってるんだから、さっさと行け」


 淡々と事実を突きつけると、悠の顔からニヤケ面が消えた。

 彼女は「ちぇっ」と舌打ちし、期待した反応が得られなかったことに不満げな表情を浮かべる。


 「……けち。ノリが悪いんだよ、恭介は」


 悠はそう一言残すと、俺の予備のタオルをひっつかんで脱衣所へと消えていった。


 バタン、と乱暴に閉まるドアの音。


 ほどなくして、シャワーの勢いよく流れる音が聞こえてくる。

 (……けち、か)

 狭いワンルームだ。水の流れる音が嫌でも耳に入ってくる。

 さっきまでそこにいた「女」が、今は薄い壁一枚向こうで裸になっている。


 そんな事実に今更ながら気づき、俺は慌ててトースターのスイッチを入れた。

 焼けるパンの香りが漂い始める。

 それと同時に脱衣所の隙間から漏れ出してきたのは、石鹸の香りと……少しだけ湿り気を帯びた、春の朝の空気だった。


 「……あいつ、風呂上がりに着る服持ってきてんのか?」


 ふと浮かんだ懸念に俺は頭を振った。

 あいつのことだ。どうせ「恭介のシャツを貸せ」とでも言い出すに決まっている。


 俺は茶色の福神漬けの袋を冷蔵庫から取り出し、わざと音を立ててテーブルに置いた。


 トースターから「チン」と軽快な音が響く。

 焼きたてのパンの香りが部屋に広がり、俺が皿を用意しようとしたその時、脱衣所のドアが開いた。


 「ふぅー、さっぱりした。恭介、サンキュ」


 背後から聞こえた声に振り返り、俺は手に持っていた皿を落としそうになった。


 「……お前、何その格好」


 そこに立っていたのは、俺の予備のシャツを羽織っただけの悠だった。

 高校生男子の体格に合わせて買ったシャツは、彼女の華奢な肩にはあまりに大きく、袖先から指が少しだけ覗いている。


 そして何より、長めの裾が太ももの半分ほどまでを覆っているものの、その下は――。


 「あ? 服、濡らしたくなかったから借りたぞ。文句あるか?」


 悠は濡れた髪をタオルで拭きながら、事も無げに俺の横を通り過ぎた。

 歩くたびに裾が揺れ、白く眩しい脚が露わになる。

 湯気と共に立ち上る石鹸の香りが狭いキッチンを一気に支配した。


 「文句しかないだろ! せめてスカートくらい穿けよ!」


 俺は慌てて視線を逸らし、トースターの中のパンを凝視する。

 だが視界の端には椅子に深々と腰掛け、無防備に脚を組む彼女の姿が映り込んでしまう。


 「いーじゃん、減るもんじゃなし。それとも……そんなに直視できないほど、私のこと女として意識しちゃってるわけ?」


 悠が椅子の背もたれに腕を回し、覗き込むようにニヤリと笑う。

 確信犯だ。

 こいつは俺が困惑するのを楽しんでいる。


 あのガキ大将が自分の成長した身体を最強の武器として使いこなしている。


 「……意識とか以前の問題だ。風邪ひくぞ、ほら」


 俺は自分のパーカーをひっつかみ、彼女の頭から乱暴に被せた。

 視界を遮られた悠が「むぐっ」と変な声を出す。


 「おい、せっかく乾かしたのに! 恭介のわからず屋!」


 「うるさい。そのまま着てやがれ。じゃないと朝飯抜きだぞ」


 パーカーに埋もれてモゴモゴと文句を言う悠を見て、俺はようやく一息ついた。


 だが、パーカーの隙間から覗く彼女の耳が、ほんのりと赤くなっていることに俺は気づかない振りをすることにした。


 「……ほら、食うぞ。赤色の福神漬け、乗せてやるから」


 「……わかってるじゃん。あ、茶色も一口だけなら試してやってもいいぞ?」


 嵐のような朝はまだ始まったばかり。

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