第358話 打開
霧が出始めたと思ったら、あっという間に包まれてしまった。
一瞬ジュスタンは、シルヴィアの馬車を探そうかと振り返った。
しかし濃霧で完全に視界を奪われた。どこにいるか皆目見当もつかない。
「こんなことなら、馬車と並走するんだった」
そう臍を噛んでも後の祭りである。
ジュスタンは、束の間目を瞑るとすぐに目を開き、馬を前へと歩ませた。
「こうなったら、前進あるのみ」
この霧は、明らかにおかしい。魔獣の匂いがプンプンする。おそらく頼もしい仲間たちもとっくに感じているだろう。
これは間違いなく敵の攻撃だ。
油断なく慎重に、されど歩みは確実に。
それにしても静かだ。まったく音がしない。森に棲む生き物たちの息遣いが感じられないからだ。無論、争闘の気配もない。
霧の中を進むうち、あることに気がついた。
霧は、ある一定の方角から流れてくる。しかもそこが最も色が濃い。
ジュスタンは、ある確信をもってその濃い色を目指した。
しばらく何事も起こらなかった。霧が人型を取って襲ってくることもない。
それは突然だった。
一人の幼い少女に出くわした。10歳くらいだろうか。彼女はとてつもなく太く大きな木の根元に座っていた。
こんな霧深い森の中に、泣きもせず子どもが一人でいるだけでも普通ではない。しかしそんなことより何より、彼女が普通ではないことは明らかだった。
少女は、顔がなかった。
目も鼻も口も耳も、何もない。あるのは髪だけだった。
白髪の髪は四方に伸び、その先は霧状になって森中に拡がっていた。
「あれぇーっ!? お前、誰よ?」
唐突に、声が聞こえた。それは、直接頭の中で響いた。どうやら思念伝達が使えるらしい。
「おっかしいなあ。わたしの触角に反応しないなんて。お前、見た目は人間族らしいけど、ほんとは魔獣なんじゃないの?」
「幸いなことに、僕は正真正銘、ジュスタンという人間族だよ」
ジュスタンは、この際だというのに翠色の前髪をかき上げた。この癖は、きっと死んでも直らないに違いない。
「今から君を倒す。その前に名前を聞こうか」
「わたしを倒す? 冗談が下手だね、ジュスタン・ファーブル」
「……フルネームで名乗った覚えはないけど」
「わたしは、触手で触れれば、頭の中を覗けるのよ」
「……」
「ふむふむ…。妻はメロディ・パスカル。子どもはジュリアン・ファーブル。メロディは次の子どもを妊娠中か。人間族は繁殖力が強いねえ。数ばかり増やしてどうするのよ」
「魔獣に答える義理はないな」
「至宝天の『天弓のジュスタン』か。知ってる知ってる。シルヴィアの腰巾着でしょ〜?」
「ガブリエルの腰巾着の君と同じさ」
「ちょっと言ってる意味がわかんないんだけど」
「七曜珠というんだっけ? その一匹なんだろう?」
「失礼なやつだな。わたしたちこそ、真の人類よ。お前こそ人間族の一匹じゃないか」
「男一匹夢途上、ってね。夢に向かって走るイケメンとは、僕のことさ」
「……意味わからん。もういいよ、お前とは会話が成り立たない。どうせ羊角族以外は皆殺しなんだから、ここで死にな!」
周りに漂っていた霧が人型を取った。体の中から剣を取り出して次々とジュスタンを囲んだ。
間髪入れずジュスタンは三連矢を少女に放った。強弓は過たず少女へと吸い込まれる…はずだった。到達する前に剣がいくつも湧き出し彼女の前に壁を作った。
矢は剣を折ったが、そこで勢いを殺され虚しく地面に転がった。
二陣を放とうとしたが、霧の剣士が斬りかかってきた。素早く剣に持ち替え応戦したが、後ろから馬が斬られた。高くいなないた馬は、ジュスタンを振り落とし暴走を始めた。霧の剣士が群がり寄り、哀れな馬はたちまち斬り刻まれてしまった。
地面に投げたされたジュスタンは、また弓に持ち替えた。その場で回転しながら三連矢を放った。正確に剣を貫き砕いていく。誰にも為し得る技ではない。まさに神技であった。
しかし剣を破壊されても、霧の剣士はすぐさま新たな剣を取り出し襲いかかってくる。
矢では間に合わないとみて、剣で応戦した。華麗な剣さばきで敵を打ち砕いていく。天弓は、剣の技量も超一流であった。
だが悲しいかな、どんな天才でも体力は無限ではない。いつか尽きるときが必ずくる。ましてや孤立無援。対して霧の剣士は無限。結末は火を見るより明らかであった。
一太刀を背中に受けた。咄嗟に身体を捻ったので軽傷で済んだ。だが、ついに敵の刃を受けたことは事実だ。
「……死んでたまるか」
ジュスタンは、剣を握る手に力を込めた。
「こんなところで死ねない。僕はメロディの胸に帰るんだ。ジュリアンを腕に抱くんだ。生まれてくる子に、必ず会うんだっ!」
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ドラードは、四肢を踏ん張った。しかしサムディが創り出した巨大な重力場へと徐々に引きずり込まれていた。
「旦那さまっ! 跳躍してっ!」
「駄目…だ…引き寄せる力が強過ぎて…抵抗するので精一杯だ」
「くっ…!」
カリーナは、空間にぽっかりと空いた真っ暗な穴を睨みつけた。
「あの穴に吸い込まれたらどうなるのか、考えるのも嫌になるね」
「諦めろっ!」
穴の裏側からサムディの勝ち誇った声が響いた。
「一度引き込まれたら、重力場から逃れる術はないよ。なに、痛みを感じる間もなく一瞬で体がバラバラになるから、怖いことなんかないさ」
「……まさか、人で実験したんじゃねえだろうな」
カリーナは唇を噛んだ。元より魔獣に情けなどあろうはずもない。平気で生きた人を投げ込んでいてもおかしくない。
「クソ魔獣がっ。―旦那さまっ! こうなったら一か八かです。私をあの穴に放り投げてください!」
「なっ…!? 馬鹿なことを言うな。ただの自殺行為ではないか」
「もちろん、死ぬつもりはないですよ。でもこのままじゃ、確実にあたしたちはあの世行きです。だったら、万に一つでも可能性があるなら、それに賭けたい」
「しかし、どう考えても穴に飛び込むのは無謀だ」
「……体毛は吹き飛ばせますか?」
「体毛だと…?」
「できるだけ多くの体毛と一緒にあたしを飛ばしてください。それを足場にします」
「む…」
ドラードは、カリーナの意図を悟った。しかし、かなり危険だ。失敗すれば間違いなく体毛と共に吸い込まれる。
「……危険…だが、確かに今はそれに賭けるしかない」
ドラードは即決した。
「失敗しても悔やむまい。私もすぐに後を追う」
「いやあね、旦那さま。すぐに笑ってお会いできます」
カリーナは朗らかに言った。
「よし。カリーナ。覚悟はいいか?」
「いつでも」
ドラードは黄金色に輝く体毛を大量に射出した。カリーナは体毛の束の上にしゃがんだ。
目の前に真っ暗な穴が迫る。体毛が加速した。穴に吸い込まれる。その瞬間。思い切り跳躍した。体毛は穴の奥へと消えた。そのとき、カリーナは…
「―ぎゃあ〜っ!」
悲鳴を上げてサムディが地面に転がった。一瞬で重力場が消えた。踏ん張っていたドラードは、反動で後ろに転がり飛んだ。が、すぐさま跳ね起きる。目に映ったのは、カリーナが剣を振り上げるところだった。
腹から血を流して地面に這いつくばるサムディにとどめを刺そうとしていたのだ。
加勢すべく跳躍しようとした、刹那。サムディが消えた。カリーナの剣は虚しく空間を斬り裂いただけだった。
「カリーナっ!」
ドラードは愛する妻に駆け寄った。
「……申し訳ありません、旦那さま。まんまと逃げられました。あと一歩でしたのに…」
「謝る必要などない。よくあの穴を跳び越えてくれた。礼を言うぞ」
「ありがとうございます」
カリーナは、少しも嬉しそうではなかった。ドラードは鼻先をカリーナに押しつけた。
「―カリーナ。お前は、私の誇りだ」
「旦那さま…」
カリーナは鼻に抱きついた。しばらく目を閉じていたドラードは、身を起こした。
「―行くぞ、カリーナ。ほかの者たちも苦戦しているだろう」
「はい、旦那さま」
カリーナがドラードの背に乗った、そのとき。奇跡が起こった。
「―な、なんだ、これ!?」
二人は、しばし呆然とその場に立ち尽くした。
【裏ショートストーリー】
メロディ「ジュスタァァ〜ン!」
ジュスタン「なんだなんだ? 出掛けに急に抱きついてきて」
メロディ「気をつけてね」
ジュスタン「大丈夫だよ。僕が死ぬようなヤワな男に見えるかい?」
メロディ「見えるわ。あなたは、いつだって危なっかしいやんちゃな男の子だもん」
ジュスタン「……ヤワとやんちゃは、だいぶ違うけど」
メロディ「危ないことしないでね。元気に帰ってきてね」
ジュスタン「本当にどうした? いつもはもっとあっさり送り出すくせに」
メロディ「そんなことないわ〜。いつもキスして送り出してるじゃない」
ジュスタン「そのキスは、今日はしてくれないのかい?」
メロディ「バァ〜カっ! ……」
ジュスタン「……」
メロディ「……ねえ、ジュスタン。お腹の子、女の子だったらいいな、って言ってたよね?」
ジュスタン「え…うん。言ったよ」
メロディ「このごろ、強く思うの。この子は女の子なんじゃないかなって」
ジュスタン「……」
メロディ「女の子だったら、エステルにしない?」
ジュスタン「名前? 今、急に決めなくても…」
メロディ「やだっ! 今決めるの! ねえ、いいでしょ? エステル」
ジュスタン「ああ。メロディがそうしたいなら、賛成するよ」
メロディ「ありがと〜っ、ジュスタン! そう言ってくれると思ったわ」
ジュスタン「……それじゃ、行ってくるね」
メロディ「うんっ。気をつけてね(……なんでこんなに胸が苦しいのかしら。不吉なことは言いたくなかったから、黙ってたけど…ジュスタン、お願い。無事に帰ってきて…)」




