第344話 弟子入り
「信じられないわ、人格が入れ代わる、なんて」
シルヴィアは、ミレーユ、アルフォンスの二人と別れて、私室に戻る途中であった。
アルフォンスから聞かされた話は、衝撃的なものだった。ある特定の言葉を自身に向けられると、アルフォンスからジェレミーへ、ジェレミーからアルフォンスへと入れ代わってしまうのだという。
俄には信じ難いが、目の前のアルフォンスは、確かにジェレミーとは到底思えない。別人と言われたほうがしっくりくるほどだ。
そして当人たちは実際、別人格を、別人だと認識している。一つの身体の中に別人がいて、その別人が身体を支配しているとき、記憶はまったくない。それを、当人たちは『時間を盗まれた』と表現する。
「―私も到底信じられません。今でもジェレミーさまの演技なのではないかと半分疑っているくらいです」
サンドラは、頭を振った。まるで、迷い込んだ夢の世界から現実に戻ろうとするかのように。
「そうねぇ…。まあ、真偽はともかく、お二人の力にはなってあげたい。でも、どうすればいいのかしら」
「ミレーユさまは、まだシルヴィアさまに遺恨がお有りのようですし、アルフォンスさまのご決意も固そうですし」
アルフォンスは、商売を始めたいらしい。理由の一つには、父親から独立したいようだ。これまでの経緯からすれば、それも致し方ないだろう。
その上、ミレーユと結婚しての新生活を夢見ている。二人で力を合わせて商売を大きくし、ゆくゆくは大商人の仲間入りを、と…。
「まさに夢物語ですね」
サンドラは、ばっさりと切って捨てた。
「商売をしたこともない貴族がぽっと始めて成功するほど、甘い世界ではありませんよ。しかも、具体的にどういう商いをするつもりなのか聞いても、何一つ答えが返ってこない。間違いなく、失敗しますね」
「そこまで、あけすけに言わなくても…」
シルヴィアは苦笑いを浮かべるが、気持ちは同じだ。そしておそらくはミレーユも。
ミレーユがアルフォンスに恋しているのは間違いない。好きな男の夢に助力したいが、失敗することも目に見えている。思いあぐねてプロポーズに曖昧な返事を繰り返し思い留まらせている、というところだろうか。
「それでも、いつまでも誤魔化してはいられません。アルフォンスさまが、いつしびれを切らして商売とやらを始めるか、わかりませんよ」
「あたしもサンドラに同意。―ちょっと待って」
シルヴィアは急に立ち止まった。大きく息をつく。
「―ふぅーっ。ああ、しんど」
「少しどこかで横になりますか?」
サンドラは心配そうに寄り添った。
「……大丈夫。ちょっと休めば平気だから。それに、お医者さまにはできるだけ歩くように言われてるの」
「無理はなさらずに」
「ありがとう。―今になって、サンドラの気持ちがよくわかるわ」
「はい?」
「このお腹じゃ、走ることも剣を振ることもできない。脂肪ばっかりついて、せっかく鍛えた筋肉も落ちちゃうし。剣士としては、妊娠なんて踏んだり蹴ったりね」
「ようやくおわかりいただけましたか。大きくなるお腹を見て、一日でも早く出てこい、と毎日念じていましたよ」
「早く生んで、すぐにでも鍛え直したい、って思うよね」
二人は顔を見合わせた。どちらからともなく笑顔が広がり、次には爆笑していた。
「―サンドラ。みんなには内緒よ。こんな話をしているなんてバレたら、確実にお説教だわ。特にメロディにね」
「まったくです」
「……でも、どうしたものかな」
笑いを収めて、シルヴィアは思案顔になった。
「ジェレミーさまのことをコレットに話さないわけにはいかないし。あの子も気にしているだろうし」
「正直に伝えるしかないと思います。―大丈夫。コレットは強い子ですよ。ちゃんと受け止めてくれます」
「そうね。……そうよね」
シルヴィアは、また歩き出した。
「―そういえば、一つ良いことがあったわ」
「なんでしょう?」
「強情なサンドラが、ようやくあたしの侍女だと認めたことよ!」
「えっ…!? 認めた覚えはありませんが…」
「ミレーユに説教しているときに、あたしの侍女だと明言していたわよ」
「……! あれは、話の流れでそう言っただけで、本心ではありません」
「ふふっ。そういうことにしておくわ」
サンドラは、ムスッとして、そっぽを向いてしまった。それを、シルヴィアはころころと笑い転げた。
「―さあ、お部屋ですよ、シルヴィアさま。あと一踏ん張りです」
「ふふふっ…。ありがとう」
ようよう部屋に入ると。
「―よう、シルヴィア。客人と会ってたんだって?」
アダンが待ち構えていた。
「あら、アダン。珍しいわね。こっちより先に奥さまに会ってこなくていいの?」
「とっくに顔を出してきたよ。ご機嫌も取ってきたし」
「ご機嫌? ―ごめんね、座らせて」
シルヴィアは、よっこらしょ、とソファに腰を落ち着けた。
「どうぞ。妊婦は最優先で休んでくれ。―キスのことさ」
「ちょっと、アダン。おノロケなら出ていってちょうだい」
シルヴィアが睨んだ。そこへすかさずコレットが口を挟んだ。
「シルヴィアさま。私のことなら、お気遣いなく。とっくにアダンのことなんか、忘れていますから」
「忘れるは、ないだろう。酷いなあ」
「あなたみたいなデリカシーのない男は、忘れられて当然よ」
シルヴィアにもたたみ掛けられて、アダンは両手を挙げた。
「うへえ。すまんすまん。俺が悪かった。どうやら女神さまたちは、ご機嫌斜めのようだな」
「……で、何の用? 皇宮に住むことに決めたの?」
「それはまた、おいおいな。今日は純粋に商売の話をしにきた」
「商売…?」
「『カフェ猫耳3号店』、出店を正式に決めたんだ。その報告さ」
「あらっ! いよいよね。確か、ファミリー向けにするのだったわね?」
「ああ、そうだ。カフェ事業は右肩上がりだぜ。しばらくは3店体勢でいくつもりだったが、一気に国内各地へ出店攻勢をかけてもいいかもな」
「売上報告を毎月見させてもらってるけど、確かに凄い金額を叩き出しているわ。経営を任せているのだから、あなたの判断に任せます」
「ただ、スタッフの数が足りねえんだよ。文字通り、猫の手も借りてえ。どこかに猫の知り合いはいねえか?」
「……嫌味っぽいなあ〜。やっぱり出ていってもらおうかな」
「ごめんごめん。俺が悪かった。勘弁してくれ」
拝む仕草に、ひとしきり爆笑となった。
「―シルヴィアさま」
「わかってるわ」
サンドラの意味ありげな視線にシルヴィアはうなづいてみせた。
「―アダン。スタッフなら、心当たりがあるの」
「えっ、本当か?」
「ただ、商売はずぶの素人なの。下働きでも何でもいい。使ってやってくれないかしら」
「皇后陛下ご推薦となれば、否やはねえけど…ワケアリのようだな?」
「ええ。すこぶる付きでね」
「―まさか、ずぶの素人を一人前の商人にしろ、なんて無茶振りじゃねえだろうな?」
「あら!? いい勘してるわね」
「おいおい、マジかよ?」
「でも、一人前にならなくてもいいの。向いてないと本人が納得してくれれば、それはそれでいいし、モノになれば、それに越したことはないしね」
「ふ〜ん…。なんだか面白そうだな。詳しく聞かせてもらおうか」
「ええ、是非」
金色の瞳がくるめいた。
「話は単純よ。貴族の青年を一人、商人にするだけのことだから」
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「へえ。人格が入れ代わるのか」
リオネルが両手を頭の後ろで組んだ。
夕食後のコーヒータイムである。猫たちも思い思いにくつろいでいる。テーブルには今日も、リオネルが摘んできた花が一輪、生けてあった。
「いいなあ。俺も別人格に仕事をやらせたい」
「まっ!? 旦那さまったら、また仕事をサボることばかり考えて!」
「たまにはいいじゃねえか。俺だって、ゆっくりしたい日もあるんだよ」
「別人格から、旦那さまが仕事を押しつけられるかもしれないんですよ」
「あ…! そっか。それは困るっ!」
「まったく、旦那さまったら…。―あっ!?」
シルヴィアは、お腹に手を当てた。
「どうした?」
「今、お腹を蹴られました!」
「えっ!? ガキにか?」
「はいっ。ズドン、って。思い切り」
「どれどれ?」
リオネルが、お腹に耳を当てた。
「……。よく、わからん」
「一休みしてるのかしら。……赤ちゃんって、お腹の中でよく動いているらしいですよ。伸びとかもしてるんですって。それがお腹に当たって、蹴られたと感じるって、メロディが言ってました」
「ふ〜ん…。不思議な感じだな。男には、一生わからん感覚なんだろうな」
「身体の中に命がある幸せも、一生味わえないんですね〜、かわいそうに」
「それは別に、うらやましくはねえぞ」
「ふふっ。そうですか、それは失礼いたしました」
「―なあ、シルヴィア」
「はい? 何ですか?」
「ミレーユのこと、その…いいのかよ?」
「にゃ…どういう意味ですの?」
「だからさ…面倒みるようなことをしてさ。ほんとは、顔を見るのも嫌なんじゃないのか?」
「……むしろ、会いに来てくれて、とても嬉しかったです。なんだか、頼られたような気がして…。あ、もちろん、勘違いだと思いますけど…だけど、嬉しかった」
「……それなら、別にいいけどよ」
「ふふっ。旦那さまはお優しい!」
シルヴィアは、リオネルの肩に頭を乗せた。その表情は、幸せに満ちあふれていた。
「―それに、良かったわ。そう言葉にしても、旦那さまは別人にならないから、好きなだけ言えるもの!」
【裏ショートストーリー】
アニェス「アダン! いらっしゃい」
アダン「元気か、アニェス? 変わりはないか?」
アニェス「ええ。あなたも、大丈夫?」
アダン「俺は、風邪一つ引いたことねえよ」
アニェス「過信は禁物よ。ちゃんとご飯食べてる? 夜更かししちゃ、駄目よ」
アダン「あのな…。俺はガキじゃねえんだよ」
アニェス「男の方は、いくつになっても大きい子どもみたいなものよ。お兄さまがいい例だわ」
アダン「……あいつを基準にするな」
アニェス「一緒に住んでいれば、こんな心配しなくて済むのに」
アダン「どうもな…。皇宮ってのは、性に合わねえんだよ」
アニェス「でも、何かと便利よ。仕事なら、ここから商会に出勤すればいいんだし」
アダン「それに、貴族になりたくねえんだよ」
アニェス「それなら、前に話したでしょう? 爵位ではなくて、肩書をいただけることになっているの」
アダン「肩書ねえ…。ま、もう少し考えさせてくれ」
アニェス「アダン…。結論を出すのにあまり時間をかけないでね。私は、一日でも早くあなたと一緒になりたいの」
アダン「ア、アニェス!? そ、そういうことは、昼間から口に出して言うのはどうかな〜?」
アニェス「ふふふっ! なあに、それ? 声が裏返ってるわ。アダンって面白い〜」
アダン「……」




