第341話 期待と不安
王都ルプスは、静かだった。
商店の店先で客を呼び込む威勢のいい掛け声も、少しでも値段を値切ろうとする客の大声も、大通りを行き交う旅人や馬車の車輪の音も、何もない。
まるでそれは、住民に放棄された古の王国クシフォスの都のようだった。
カリーナたちは、辺りを警戒しつつ、静まり返った大通りを王宮へと向かう。
王都へ迫れば、激しい抵抗があるものと覚悟していたのだ。しかし大門は大きく開かれ、敵の姿はまったく見当たらない。
無人の野を行くが如く進んだ、そのとき。
「―ドラードさまだ!」
突然、声が降ってきた。
「カリーナさまもいらっしゃる!」
人など存在していないと思われた建物の中から、人々が続々と現れた。
「みんな! 無事だったか!」
カリーナは、輝く笑顔を住民たちに向けた。
「はいっ。化け物どもは、いなくなりました」
「……何があった?」
ドラードが尋ねる。
「よくわかりません。王宮が襲われたってんで、俺たちは急いで隠れたんです。王宮からは、トカゲみたいな化け物が街へあふれ出して、どんな目に遭うかとビクビクしていました。そしたら、カマキリが現れて、引くぞって大声で呼ばわって、トカゲたち共々王都から去っていきました」
「それなのに、なぜ今まで隠れていた?」
「いや、また凄いのが暴れ回ったからです」
「凄いの…?」
「見た目は人間族の若い女の子でした。でも頭に羊の角を生やしていて、いったん外へ出た連中を次々に殺して回ったんです」
「だから、また家の中へ隠れたんでさあ。いつ襲われるかわからねえから」
カリーナとドラードは、ちらっと視線を交わし合った。すると、ドラードが声を張り上げた。
「―みんなには苦労をかけた。だが、私たちが戻ってきたからには、連中の好きにはさせぬ」
「陛下は? 陛下はご無事なんでしょうか?」
「心配はいらぬ。カトゥスへ退去なさっている。我々はカトゥスの援軍を得て、王宮奪還のため戻ってきたのだ」
「おおっ! それはありがてえ!」
「さすがカトゥス、頼りになるぜ!」
「これから王宮を奪還してくる。念のため、お前たちは家の中にいてくれ。私たちが安全を告げるまで、決して外へ出るな」
「はい、ドラードさま。どうかご無事で」
「ありがとう」
こうして、ドラード率いるカトゥス軍は王宮前に達した。街と同様静まり返り、人の気配がない。
「……旦那さま。あたしが様子を見てきます」
「駄目だ。カリーナは、ここにいろ。―アズール! 様子を見てこい」
「はっ!」
勇躍、アズールは少数を率いて王宮へ突入した。カリーナはぶんむくれにむくれて、そっぽを向いた。ドラードは目の端で妻の様子を捉えていたが、何も言葉にはしなかった。
しばらくすると、アズールが戻ってきた。
「兄者! 中は、もぬけの殻です!」
「敵は? 魔獣たちはどうした?」
「魔獣のまの字もありません。まったくの無人です」
「そうか。では、我が家へ入ろう。アズールは念のため再度王宮内をくまなく調べろ。人数は好きなだけ使え」
「はっ」
「見極めたら、我が名において市中へ布告せよ。王宮を奪還した。王都は安全である、と」
「ははっ」
アズールが走り出した。ドラードは、妻を振り返った。
「では、我らも参ろう」
「はい、旦那さま」
カリーナは、夫の腕を取った。ピタリと身体をくっつけた。その表情は、幸せに満ち足りていた。
「―カリーナ。速やかに王都の秩序を回復し、父上たちをお迎えせねばならぬ」
「はい、旦那さま」
「国軍も立て直しだ。またいつ魔獣どもに奇襲されるかわからん」
「はい、旦那さま」
「やらねばならぬことが山積しているぞ」
「はい、旦那さま」
ドラードは、妻の顔を覗き込んだ。本当に話を聞いているのか、不審に思ったのだろう。しかし、すぐに頭を小さく横に振ると、前を見据えた。
カリーナは、ただにこにこと幸せそうに微笑んでいるだけだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「こんにちは!」
ヴァネッサは、元気よく部屋に飛び込んできた。
「いらっしゃい、ヴァネッサさま」
シルヴィアは、笑顔で出迎えた。
「皆さま、シルヴィアさまの侍女にお集まりになっていて、びっくりしました」
シルヴィアと共に笑顔が並ぶ侍女たちを眺めて、ヴァネッサの声が弾んだ。
「そうなの。私も赤ちゃんができたから、正式にメロディを私の侍女にもらい受けたの」
「言っておくがヴィシー。私は侍女ではなく、シルヴィアさまの護衛だ」
サンドラは、眉根を寄せて訂正を謀った。
「えっ、そうなのですか」
「そうなのですか、って、この服装を見てわからないか?」
「そういう服装の侍女なのかと思いました。いかにもシルヴィアさま好みではないですか」
「はあっ…!?」
「さすが、ヴァネッサさまは、わかってらっしゃるぅ〜」
シルヴィアが手を叩いて喜んだ。
そのとき、キッズルームから、てけてけとジュリアンが出てきた。そのままヴァネッサの脚に抱きつく。
「きゃあ〜っ!? あなた、ジュリアンね? 可っ愛い〜!」
ヴァネッサは、ジュリアンを抱き上げた。
「ちょっと見ないうちに、ずいぶん大きくなって〜」
「ネェネ!」
「えっ!?」
「ネェネ!」
ジュリアンはヴァネッサを指差しながら繰り返した。ヴァネッサは、目を丸くした。
「うわ〜っ!? 喋ったわ! 凄いっ、メロディさん、ジュリアンはもう喋れるのね!」
「うふっ。そうよ〜。とてもお喋り好きなの。しょっちゅう何か言ってるわ」
「凄い、凄い! ジュリア―んぐっ!?」
ジュリアンがヴァネッサの鼻に指を突っ込んでいた。
「あっはっはっ!」
シルヴィアが大きなお腹を抱えて爆笑した。
「ちょ、ちょっと、ジュリアン!?」
ヴァネッサは、困ったようにジュリアンの手を取った。
「―ごめんなさい〜」
メロディも笑い転げながらジュリアンを受け取った。
「どうしてだかジュリアンは、人の鼻に指を突っ込むのが好きなのよ〜」
「そ、そうなんだ…」
「安心しろ、ヴィシー」
サンドラがポンと肩を叩いた。
「お前だけじゃない。ここにいる全員、何度も被害を受けている」
「そうよ。そこで笑い転げているシルヴィアさまを含めてね」
コレットも、楽しそうに被せてきた。
「まあ…シルヴィアさままで。天下の皇后陛下の鼻に指を突っ込んだ唯一の勇者なのね」
「勇者か。それはいい!」
サンドラが、笑い声を上げた。こんなに楽しそうなサンドラは久しぶりに見た気がする。シルヴィアは、内心、ほっこりした気分に満たされていた。
「……何かの拍子で覚えてしまったのね」
ジュリアンを胸に抱いて、頬を寄せながらメロディが言った。
「大人たちのリアクションが大きいから、楽しいんでしょう、きっと」
「ふ〜ん。子どもって、面白いわ」
ヴァネッサは興味津々で様子を眺めている。
「バスティアンはどんな感じ?」
「ちょうどお昼寝中なの」
ヴァネッサはベビーベッドを覗き込んだ。
「きゃあ〜っ! 可愛いっ! 天使みたい」
「寝顔は、な」
サンドラが並んで立ち、そっと頭を撫でた。
「目を覚ましたら、魔獣のように暴れ回るぞ」
「まっ!? そんなに?」
「魔獣は大げさですよ〜」
メロディがくすくすと笑った。
「でも、確かに子育ては息の抜けない闘いのようなものね」
「……」
「あまり、脅かさないで」
真剣な眼差しに変わったヴァネッサを見て、シルヴィアはおどけた様子で言った。
「私、間もなくその闘いに身を投じるんだから」
「……来年、私がこちらに戻ってくるころには、シルヴィアさまも子育てをなさっているのですね」
青白磁の瞳が揺れている。きっと、期待と不安が交錯しているのだろう。バルケッタとの結婚生活が、現実味を増してきているからかもしれない。
「―バルケッタに会ってきたのでしょ? 彼、どんな感じだった? 喜びのあまり踊り出していたりして」
「……とても劇的な再会でした」
「ん…?」
複雑な表情が浮かんだヴァネッサに、シルヴィアは優しく促した。
「ちょっと落ち着いて話しましょうか」
テーブル席に座ると、ヴァネッサは、かいつまんで経緯を説明した。
「―まあ…。まさか、そんなことになっていたなんて…」
シルヴィアは、目を丸くした。
「全然知らなかった。ごめんなさい、ヴァネッサさま。私がもっと気を配るべきだったわ」
「とんでもない! すべてランスさんが悪いんです。肝心なことをお相手にお伝えしないから」
「でも、驚いたわ。ジョゼにバルケッタの世話を頼むなんて」
「フルールさまにも同じことを言われました」
「フルールさまが…」
「大丈夫。ジョゼさまは道理のわかる方。決して変なことにはなりません」
「ヴァネッサさまがそう仰るなら、いいのですけど」
「……でも、正直、少し不安になりました」
「……」
「いえ、期待のほうが大きいんですよ? でも、ランスさんの妻になるということは、吏部尚書バルケッタの妻になるということ。嫌でも尚書家の内を治めなくてはなりません。今回のような揉め事は、この先何度も起こり得るのだろうなあ、と思ったら、私にできるのかな、と不安になってしまって」
やはり今回の騒動で、結婚への憧れが現実へと変わったのだ。彼女の気持ちはよくわかる。
でもヴァネッサは、頭の良い子だ。きっとそれも克服できる。
うつむいてしまったヴァネッサに、シルヴィアは温かい眼差しを向けた。
「―不安なくらいで、ちょうどいいのではないかしら」
「え…」
「あたしも、輿入れするときは不安だったわ。それでも、周りの方に支えられてなんとかやってこれた。ヴァネッサさまには、あたしたちがいるわ」
「シルヴィアさま…」
「バルケッタは、あたしにとって弟みたいなものだわ。だとすれば、ヴァネッサさまはあたしの妹よ」
「ありがとうございます」
青白磁の瞳がうるうると潤んだ。
「シルヴィアさまにそのように仰っていただけて、とても嬉しい! 私は幸せ者だわ。頼りになるお姉さまに囲まれて」
ヴァネッサは、サンドラやメロディ、コレットを見回した。皆の視線が温かい。
感極まったように、涙をあふれさせながら笑顔が弾けた。
「―これからも、ご面倒をおかけすると思いますが、どうぞ、よろしくお願いします!」
【裏ショートストーリー】
コレット「ヴァネッサさまは、可愛いわ〜」
メロディ「ほんとねえ。恋に恋する少女だったけど、短い間にすっかり大人の表情になったわぁ」
コレット「来年が楽しみですね」
メロディ「一生懸命、花嫁修業しているのですって」
コレット「勉強熱心なのねえ。私も見習わなくちゃ」
メロディ「コレットさまは、いつでもギャスパル夫人になれるわ」
コレット「……! い、嫌だわ、メロディさま。ま、まだ私なんて、そんな…ムリだから…」
メロディ「んふふふっ! コレットさまも可愛いわぁ〜」
コレット「もうっ! メロディさまったら、からかわないでくださいっ!」
メロディ「女の子は可愛くていいわぁ。ジュスタンじゃないけど、このお腹の子は女の子だといいな」
コレット「生まれる前に性別がわかるといいのに」
メロディ「そうね。いつかそんな時代がくるといいわね」
コレット「お名前は決めたのですか?」
メロディ「まだよ。ジュスタンと相談中」
コレット「男の子と女の子、両方考えておくのですか?」
メロディ「そうよ」
コレット「ジュリアンが女の子だったら、なんという名前にする予定だったのです?」
メロディ「……エステル」
コレット「へえ〜っ! エステル。可愛いっ!」
メロディ「でしょ? 結構、気に入ってたのぉ〜」
コレット「お腹の赤ちゃん、女の子だったら、エステルにしたらどうですか?」
メロディ「ええ?」
コレット「可愛いと思いますよ」
メロディ「……そう…ね。悪くないな。……エステル〜。早く会いたいわぁ。元気に育ってねえ〜」
コレット「……まだ、女の子と決まっていませんよね?」




