第337話 ピエロとフィアンセ
「シルヴィアさまっ!」
サロンに駆け込むなり、ヴァネッサはシルヴィアに抱きついていた。
「ヴァネッサさま! お元気そうね」
シルヴィアは、太陽のような輝く笑顔で少女を迎えた。
「はいっ。シルヴィアさまもお変わりなく…あら、ずいぶん大きなお腹ですね」
初めて気がついた、というように膨らんだお腹を見た。そして小さく舌を出した。
「ごめんなさい。お会いできた嬉しさで、つい妊婦さまということを忘れて抱きついてしまいましたわ」
「―姫さまっ。はしたない!」
遅れて入ってきたオルタンスが早速叱りつけた。彼女は、ヴァネッサ付きのベテラン侍女である。
「そもそも姫さまには、王女という自覚が足りません! シルヴィア陛下に抱きつかれる前に、ご挨拶があるでしょう!」
「……何よ、ガミガミとうるさいわねえ」
当人としては、つぶやいたつもりだったが、耳聡いオルタンスは聞き逃さなかった。
「聞こえていますよ、姫さま。うるさく思われるでしょうが、まずはご挨拶です!」
「ふふふっ! 相変わらず元気いっぱいねえ、ヴァネッサさまは」
コロコロとシルヴィアは笑い転げた。
ヴァネッサは、すいっと居住まいを正すと、完璧な膝折礼をした。
「―リオネル陛下、シルヴィア陛下、並びにアニェス殿下。ルメール王国王女、ヴァネッサにございます。永のご無沙汰をいたし申し訳もございません。また、その節は大変お世話になり、幾重にも感謝申し上げます」
「丁寧なご挨拶、痛み入ります」
にこにこと笑いながら、シルヴィアも挨拶を返した。
「急なお出まし、驚いたわ。事前にご連絡をいただければ、お出迎えの準備をしましたのに」
「ごめんなさい。幼年学校が夏休みになったので、居ても立ってもいられなくなって、つい連絡もせず来てしまいました」
「大歓迎よ、ヴァネッサさま」
アニェスも、神々しいばかりの笑顔を浮かべた。
「お互い、積もる話もお有りでしょう。まずはお座りになって」
「はい、アニェスさま。―あの」
物怖じしないヴァネッサが珍しく、もじもじと両手を捻った。
「ランスさん…じゃなかった、バルケッタさまは、お変わりありませんか」
「ええ。彼は相変わらず、朝から晩まで仕事にどっぷりと浸かっているわ」
シルヴィアが応えた。目元は笑っている。
「婚約者としては、一刻も早くお会いしたいでしょうね」
「べ、別に、そういうわけでは…ありませんけど…」
「ふふっ。まあ、そんなに慌てなくとも、バルケッタは逃げやしません。まずは旅のお疲れを癒して、その後、彼をびっくりさせてやりましょう。喜ぶ彼の姿が今から目に浮かぶわ。楽しみだこと」
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婚約者の来訪を知らないバルケッタは、アフタヌーンティーを楽しんでいた。……しかも、美女二人と。
「ようやく、綺麗になりましたね」
アイラは、ピカピカに磨き上げられた部屋を満足そうに眺め回した。余分なものが片づけられた分、広く感じられる。
「これも、お二人のおかげです。感謝いたします」
「……よそよそしいのね。こんなに仲良くなったのですもの。もう少し砕けてもよろしいんじゃありません?」
「えっ…!? 砕けるのですか?」
「あっ…! 違いますよ? 物理的に崩れるという意味ではありません」
ジョゼがバルケッタの勘違いを正した。既にバルケッタの言語能力には慣れてきている。
「かしこまらずに、親しい言い方をしましょう、という意味です」
「ああ…! なるほど、そういう意味でしたか」
「……バルケッタさまって、本当に不思議」
お茶受けのクッキーを頬張りながら、アイラが言った。
「幼年学校を12歳で卒業なさった天才児とお聞きしました。それなのに、言語は不得意なのね」
「どうにも覚えきれなくて」
バルケッタは、恥ずかしそうに頭をかいた。
「言葉には、複数の意味がありますよね。今の砕けるという言葉もそうですが。皆さん、その場に合わせて的確に使い分けている。それが僕には難しい」
「あまり深く考えたことがないわ。ねえ、ジョゼ」
「あ、はい。いつの間にか覚えてしまったという感じでしょうか。それが母語といってしまえばそれまでですが」
「先生にもお願いして学習したのですが、いろいろあって中断してしまい、なかなか上手くいきません」
「へえ…」
アイラの口元がほころんだ。
「それじゃあ、ジョゼ。あなたがバルケッタさまにお教えして差し上げれば?」
「―ぶぅーっ!?」
ジョゼが盛大に紅茶を吹き出した。その先には、バルケッタがいる。
「きゃああぁぁ〜っ!?」
ジョゼは悲鳴を上げてバルケッタに取りついた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
紅茶がべっとりと服にかかっている。
「……お洗濯しますっ!」
すっかり舞い上がってしまったジョゼは、無理やり服を脱がし始めた。
「あっ…! いえっ! これくらい平気ですからっ!」
「ジョゼ! 落ち着きなさいったら!」
一応アイラは止めに入ったが、笑い転げているため、役に立たない。力任せにジャケットを脱がした、そのときだった。
「―ランスさんっ! 来ちゃいましたぁーっ!」
ヴァネッサがノックもせず飛び込んできた。
一瞬で笑顔が凍りついた。
最悪のタイミングだった。
下着一枚のバルケッタ。ジャケットを手にしたジョゼ。二人とも、瞠目してヴァネッサを見つめている。
ヴァネッサは、我に返ったようにつかつかとジョゼに近づいた。
「―あなた、誰? ここで何をしているの?」
「あなたこそ、誰よ?」
凍りついたままのジョゼに代わり、アイラが噛みついた。
「ノックもせずに入ってくるなんて、失礼じゃないの!」
「何が悪いの!? 私はバルケッタさまのフィアンセよっ!」
「えっ!? フ、フィアンセ…?」
薬指に光る指輪が目に入った。アイラは息を呑んだ。刹那、ジョゼが動いた。
「あっ!? 逃げる気!?」
止める間もなく、ジョゼは部屋を飛び出した。
「ジョゼ!? 待って!」
アイラも慌てて後を追った。残されたヴァネッサは、呆然と二人を見送った。
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「待ってぇーっ!」
必死に追いかけるアイラは、ようやく練兵場の入り口でジョゼを掴まえた。
「……バカだっ、バカだっ、私は大バカだっ!」
ジョゼが泣き喚く。アイラは彼女を力いっぱい抱きしめた。
「ごめんなさいっ! ジョゼは悪くないっ! 全部私が悪いのっ」
「……わ〜んっ!」
ジョゼは、辺り構わず号泣し始めた。アイラは、黙って抱きしめ続けた。
しばらく泣き続けたジョゼは、やがてすすり泣きに変わり、ようやく落ち着きを取り戻した。
「―申し訳ありません。取り乱してしまって」
「いいえ。私があなたを煽るようなことを言ったのがいけないの。私の責任だわ」
「……少し憧れていました。少々言葉に疎いところはお有りですが」
「うん」
「でも、お優しくて、真面目で、吏部尚書さまというお偉い立ち場なのに、少しも偉ぶるところがない。私なんかにも気軽にお声をかけてくださって」
「うん…うん」
「こんな方のお側にいられたら、幸せだろうなあ…なんて、身分不相応な妄想を抱いてしまいました」
「そんな…ブランシャールは身分差別禁止になったのよ」
「でも、人の心は、そう簡単に変わりません。私みたいな貧しい村出身の庶民が、身の程知らずにも貴族さまのお側にいようなどど、だいそれたことを考えただけで後ろ指を指されてしまいますよ」
「ジョゼ…」
「婚約者さまがいらっしゃったのですね。それは、そうですよね。あんな素敵な方ですもの。―あ〜あ。恥ずかしいです。何にも知らないで、勝手に盛り上がってしまって…私なんか、ただの道化師ですよね…」
彼女の卑屈な思考は、どれだけ言葉を連ねても変わりはしないだろう。今は、黙って受け入れるしかない。
「―これから飲みに行かない?」
「えっ…?」
「せっかくのお休みだもの。パァーっとさ。飲もうよ。私が奢るからさ」
「で、でも…」
「でももヘチマもない! さ、行こう!」
戸惑うジョゼを無理やり引っ張った。
彼女は、私が守る。
こんなに健気で可愛い娘を、放ってなどおけない。
アイラは、固く心に誓った。
【裏ショートストーリー】
ヴァネッサ「……なるほど。そういうわけだったのね」
バルケッタ「彼女たちは、無償で僕の部屋を掃除してくれました。とても良い人たちですよ?」
ヴァネッサ「……」
バルケッタ「それなのに、なんで怒っているんです?」
ヴァネッサ「……どうして私が怒っているのか、本当にわからないのですか?」
バルケッタ「ええ」
ヴァネッサ(そうよね…ランスさんは、そういう人だわ。彼に限って浮気なんて絶対にしない。その上、相手の気持ちに気がつかない超鈍感男だわ)
バルケッタ「ヴィシーさん…?」
ヴァネッサ(あの様子だと、花紺青色の髪の人が、きっと…)
バルケッタ「あの…ごめんなさい。僕が悪いのでしょうね。謝りますから、どうか機嫌を直してください」
ヴァネッサ「……」
バルケッタ「せっかく再会したのに、これじゃ、悲し過ぎます。お願いですから、ヴィシーさん。機嫌を……」
ヴァネッサ「ランスさん!」
バルケッタ「は、はいっ!」
ヴァネッサ「あなたは、少しここで反省していなさい」
バルケッタ「えっ!? 反省…?」
ヴァネッサ「あなたの罪は、自覚せずに女性に甘く接するところです!」
バルケッタ「え? ……? ……?」
ヴァネッサ「わからなければ、後で教えて差し上げます! とにかく、ここで反省していて! 私は、彼女たちを追いかけますから!」
バルケッタ「えっ!? ヴィシーさん、ちょっと待って…えっ…!? よくわからない。甘く接する…? 僕が甘い…?」




