第333話 来たる草薙と去る獅子
「失礼しま…すっ!? ―汚あ〜いっ!」
一歩部屋の中へ足を踏み入れた途端、アイラは、嫌そうに顔をしかめた。
それもそのはず、床一面に紙くずだ資料だかよくわからないものが散乱し、足の踏み場もない。
「何よ、この部屋は!? ゴミ箱じゃないの!?」
思わず足元にある得体のしれないものから、身を避けた。
「あははは。申し訳ございません」
部屋の主たるバルケッタは、苦笑いを浮かべながら頭をかいた。
「……どうぞ、こちらへお座りください」
バルケッタは、椅子の上に置かれた本の束をどかした。
それだけではなく、テーブルや本棚、果てはベッドの上と、あらゆる所に本が山積みになっている。
「座れと仰られても、これでは近づけないわ」
ジロリと床のゴミ溜めを睨んだ。アイラはルプスの大商人の娘である。お嬢さまの彼女からしたら、この部屋はおよそ人の住む場所ではない。
すると、ジョゼが前に出てきた。足元のゴミを拾い集めてアイラのために通り道を確保した。
「……ありがとう、ジョゼ」
それでもアイラは、恐る恐る前に進み、ようよう椅子にたどり着いた。
「それにしても、想像以上の汚さね」
「―後で私が掃除しておきます」
ジョゼが殊勝に申し出た。
「そんなことする必要はないわよ、あなたはカノジョでも何でもないのだから」
「……」
「それとも、バルケッタさまのカノジョになりたいの?」
「―! そ、そんな…私なんて…」
ジョゼは、真っ赤になってうつむいてしまった。アイラは、そんな彼女を微笑ましく見つめた。
「―ええっと。あれは、どこへ置いたかな?」
女子二人がそんな会話を交わしているとは露知らず、バルケッタはゴミの山をゴソゴソとかき回している。
「……あっ! あった!」
見つけ出したのは、ティーカップだった。
「バルケッタさまっ!」
アイラは、必死に彼を止めた。
「私たちにはお構いなく。今日はただお部屋の様子を伺いにお邪魔しただけですから」
この汚部屋の上、いつ洗ったかわからないようなカップを出されたら、たまったものではない。
「そうですか。それは申し訳ない」
バルケッタは、また頭をかきながら、自身も本の束を脇にどかしたベッドの小さな空間に座った。
アイラたちが、なぜバルケッタの巣穴を訪れることになったかというと。
『―では、バルケッタさまは、職場で寝泊まりなさることも多いのですか』
二度目の三人デートのことであった。
アイラたちは大きな屋内植物園を訪れていた。かつてコレットがオーバンとデートした場所である。それは、アイラが兄サイノスとのデートで訪れるはずの場所でもあった。
花の嫌いな女子はいない。大いに彼女たちは盛り上がり、園内の喫茶店で一休みしているときだった。
話題はバルケッタの私生活のことになったのだ。彼の話から、仕事中毒者の生活破綻ぶりが顕となった。
『そうは言っても、部屋に帰ることも多いですよ』
『……いや、普通は毎日帰るものです』
呆れたようにアイラは言った。基本、会話はアイラとバルケッタで交わされる。ジョゼはというと、興味津々で二人の会話を聞いていることが多い。いや、バルケッタの話といったほうが、より正確か。
『職場で寝て起きたほうが、効率がいいので、つい泊まってしまうのです』
『それでは、部屋の環境維持が行き届かなくなってしまいますわ。人が使わなくなると、すぐに汚れてしまうものです』
『え…ええ、そうですね。まあ、それなりに片付けてはいるのですが』
『……本当ですか?』
『仕事柄、資料や本がすぐ溜まってしまうので、どうしても物置代わりになってしまいまして』
『……』
これは相当、部屋が乱れているに違いない。
アイラは確信した。ただでさえ、男の一人暮らしなど、環境衛生に配慮するわけがないのだ。
『……これは一度、お部屋を視察する必要がありますね』
『えっ…!?』
目を丸くするバルケッタを置いて、アイラはジョゼを振り向いた。
『ね、ジョゼ。あなたもそう思うでしょ?』
『はいっ! 是非お部屋にお邪魔したいですっ!』
ジョゼの目的は別にあることがみえみえである。それでも苦笑いを浮かべてアイラは宣言した。
『それでは、次のお休みの日は、バルケッタさまのお部屋訪問としましょう!』
こうして三人は、バルケッタの部屋で会うことになったのだ。
「―よくこんな部屋で生活できますね」
アイラは、無遠慮にジロジロ部屋中を眺め回した。
「あ、いや。ですから、職場で寝泊まりすることも多いですから」
「だとしても、汚すぎます」
「ははは。アイラさんは、はっきり言いますね」
「……あの、バルケッタさま」
珍しく、おずおずとジョゼが口を開いた。
「次のお休みに、また伺ってもいいですか?」
「えっ…」
「お部屋の掃除、したいです」
「いやいや。ジョゼさんにそんなことをさせるわけには参りません」
「私が、したいのです」
「いや、しかし…」
「いいではないですか」
アイラが口を挟んだ。
「ジョゼの望みなのですから。お部屋も綺麗になるし、バルケッタさまにとっても悪い話ではないでしょう?」
「……ま、まあ、それはそうですが」
「それなら決まりですわ」
アイラは、莞爾と笑った。
「では次のお休みは、お掃除大作戦といきましょう!」
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「それじゃ、元気でな」
ウィンストンは、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「ウィンストン殿下も、お元気で」
アニェスは、小さく手を振った。傍らにはアダンが寄り添っている。
「アダン。アニェスどのを頼んだぞ」
「任せておけ」
ウィンストンは、グーパンチを突き出した。アダンは一瞬、戸惑う表情を見せたが、すぐにグーパンチを返した。
「―ウィンストンさま。国王陛下にどうぞよろしくお伝えください」
「おう」
ウィンストンは、シルヴィアにも笑顔で応えた。
「父上には、よくよく言い聞かせておくよ。ブランシャールには絶対に手を出すな、猫耳王女の逆鱗に触れるぞ、とな」
「にゃっ!? ちょっと、言い方!」
「あっはっはっ! 冗談! 冗談だよ!」
眉を上げかけたシルヴィアに、豪快な高笑いが浴びせられた。
「ウィンストン。いつかまた、飲み明かそうぜ」
リオネルが手を差し出した。ウィンストンは、ニヤッと笑って手を握った。
「ああ。そのときまでに鍛えておけよ。酔いつぶれて寝ないようにな」
「はっ。お前に負けるかよ」
「楽しみにしてるぜ」
ウィンストンは、身を翻した。馬にひらりと跨ると、マイクを従え、リシャールを後にした。
こうして北の獅子は、祖国へと帰っていった。
「―さあ、戻ろう」
最後まで残って手を振り続けていたアニェスに、アダンがそっと声をかけた。
「……ええ」
そのときアニェスの胸に去来するものは、何だったのであろうか。ついに心情を述べることはなかったので、記録には何も残ってはいない。
少しうつむき加減で歩くアニェスの様子を並んで見守っていたアダンは、つと肩を抱いた。アニェスは、驚いたようにアダンの横顔を見上げた。
「―さてと。沈んだ女神さまなんて不景気極まりねえ。ご機嫌をどうやって取ろうかな。ネックレスをプレゼントしようか、それとも花束がいいか…」
「ふふっ。アダンったら。何もいらないわ」
小さく笑うアニェスの前にふと回って、立ち止まった。
「……はたまた指輪を贈ろうかな」
アダンは、小さな箱を取り出した。
「えっ…!?」
目を瞠るアニェスの前で、箱を開けた。中には光り輝く指輪が納められていた。
「婚約指輪だよ」
「アダン…」
アニェスは、黒い瞳をキラキラと輝かせた。
「……指に嵌めてもいいか?」
アニェスは無言で左手を差し出した。アダンはその薬指に指輪を嵌めた。
「―ありがとう、アダン」
アニェスは、指輪に勝るとも劣らない笑顔を向けた。
「アニェスは、笑顔が一番だ」
「ふふっ」
アニェスは、アダンの腕を取った。二人は並んでアニェスのサロンへ入っていった。
途端、「きゃあ〜っ!」というシルヴィアのよく通る歓声が響き渡った。
シルヴィアは、リシャール3年目の夏を迎えていた。
【裏ショートストーリー】
ソフィ「姫さまに、こんな日が来るなんて…」
コレット「ソフィさま、泣かないでください」
ソフィ「泣かずにはいられないわ。姫さまの初恋だったのよ。幼年学校で出会われて以来、ずうっとお心に秘められて…お立ち場上、告白することもできずに、ずうっと…」
コレット「……」
ソフィ「それが、とうとう結ばれるときが来るなんて…ああ! 感無量だわ」
コレット「意外です。ソフィさまは、身分差がどうのと仰るものとばかり思っていました」
ソフィ「私は常に姫さまの幸せだけを念じて参ったのよ。反対するわけないでしょう」
コレット「大変、失礼いたしました」
ソフィ「ただ、当面は国民へ公表なさらないそうよ」
コレット「ウィンストン殿下との結婚を解消されたばかりですものね」
ソフィ「夫婦らしい生活ができるのは、当分先のことね」
コレット「アダンのことだから、しょっちゅう口実を設けて皇宮にやって来ると思いますよ」
ソフィ「あ…! ごめんなさい、コレット。つい嬉しくてはしゃいでしまったわ。その…あなたの前でする話ではなかったわね」
コレット「いえいえ、お気遣いなさらずに。アダンとのことは、とっくに区切りをつけていますから」
ソフィ「だとしても、配慮が足りなかったわ。許してね」
コレット「……本当に、二人のことを心から祝福しているんです。自分でもびっくりするくらい。だから、気にしないでください」
ソフィ「あなた、とてもいい子ね」
コレット「ふふっ。そんな、おだてないでくださいよ〜(……良かったね、アダン。あなたも初恋を実らせることができて。どうか、お幸せに。……そして、さようなら。私の初恋…)」




