第311話 夕陽に沈む街
アニェスは、そっと病室を覗いた。
サンドラが微動だにせずベッド脇の椅子に座っている。
「―お義姉さまの様子はどう?」
「アニェスさま」
サンドラは、皇妹に軽く会釈した。少し礼を失しているかもしれないが、双方気にはしなかった。というより、サンドラの方はそんな心の余裕がなかったからだが。
「まだ、気づかれません」
「そう…。でも、お腹の赤ちゃんが無事で良かったわ」
アニェスは、ソフィからお見舞いの花を受け取り、サイドテーブルにそっと置いた。お見舞いの花がうず高く積もっている。
「お義姉さまが戦場で倒れられたと聞いて、とても驚いたわ。赤ちゃんに万が一のことがあったら、どうしようと、気が気でなかった」
「申し訳ございません。すべて、私の不注意からきたこと。アニェスさまのお心をお乱しし、お詫びのしようもございません」
サンドラは、憔悴し切ってうなだれた。
アニェスは、胸をつかれた。
(こんなにやつれて…。可哀想に。一身に責任を背負い込んでしまったのね)
「あらあら、ごめんなさい。私の言い方が悪かった。少しもあなたを責めたのではないわ。それに、状況をいろいろ聞いたけど、むしろ、あなたの言うことを聞かなかったお義姉さまの方が悪い」
「いいえ。やはり私の責任です。私は護衛官です。片時もシルヴィアさまから離れるべきではなかった」
「そんなに自分を責めては駄目よ。こう言ってはなんだけど、仮にあなたが側近くいたとして、あのお義姉さまを抑えることができたと思う?」
「……」
「私だって、押し止める自信がないわ。それがお義姉さまなのだもの」
「あ…。アニェスさまを立たせたままで、大変失礼いたしました」
アニェスをベッド脇に立たせたままだったことに気がついて、サンドラは慌てて立ち上がった。
「いいわ。気を遣わないで。それよりサンドラ。あなた、ちゃんと休んでるの? 目の下にくまができてるわよ」
「―サンドラさまは、夕べから一睡もされていません」
コレットが病室に入ってきた。新鮮な水に入れ替えた吸い口を、山と積まれた花束の隙間に置いた。
「あら。コレット。それは本当?」
「本当です。いくら看病を代わると言っても、頑なにシルヴィアさまのお側を離れようとしないんですから」
「困ったわね…」
アニェスは、心配そうにサンドラを覗き込んだ。
「あなたが倒れてしまうわよ、サンドラ。バスティアンのことも考えなくてはいけないわ」
「……バスティアンなら、メロディが面倒を見てくれます」
「聞きしに勝る強情ぶりね」
アニェスは、深いため息をついた。シルヴィアも強情なところがあるが、主従というのは似てくるものなのだろうか。
「―とにかく、サンドラさまは休んでください」
サンドラがアニェスに譲った椅子に、コレットはちゃっかり座った。
「サンドラさまばっかりずるいわ。私だって、シルヴィアさまの侍女なんですから、少しは看病させてください」
「すまない…」
オッドアイから、光るものが一つ、こぼれ落ちた。皆の優しさが暗く沈んだ心に染みてくる。
「私が不甲斐ないばかりに、みんなに迷惑をかけて…本当に申し訳ない…」
「サンドラ…」
アニェスは、震える体をそっと抱きしめた。堰を切ったようにオッドアイから涙があふれ出した。
「申し訳ありません…アニェスさま…申し訳…」
アニェスは、黙ってそっと背中をさすった。涙は頬を濡らし続け、容易に渇きそうになかった。
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シルヴィアの病室で繰り広げられたシーンは、実は別の病室でも演じられていた。
「―エーヴ。まだ付き添っているのかい?」
ジュスタンが呆れたように言った。
「……」
いつも元気なエーヴは、すっかり憔悴して暗く落ち込んでいた。
「医者も言ってたろう? 手術は成功したんだ。当面、危機は乗り越えた。いつまでも付き添っていたって、病状は変わらないよ」
「……でも、まだ予断は許さないとも言ってた」
か細い声でエーヴは応えた。
「そりゃあ、まあ、肺に穴が空いたんだからね」
ジュスタンは、ガラス越しにサイノスの様子を窺った。彼は白いベッドの上で、静かに横たわっている。
彼は、診療所完全看護のもと、面会謝絶で個室に隔離されていた。
本来ならエーヴたちのいる場所も、部外者は入室禁止なのだ。それを、皇妹アニェスの鶴の一声で許されていた。もっとも、至宝天と家族のみに限定されたが。
「サイノスは頑丈だから、大丈夫だよ」
「……わたしのせいだ」
「え…」
「わたしがガブリエルを挑発しなければ…サイノスはこんなことにならなかった」
「きみのせいじゃ、ないよ」
「もし…このまま意識が戻らなかったら、どうしよう…わたし…わたし…」
青い瞳から大粒の涙がこぽれた。
「大丈夫だって。前に骨折したときだって、普通より早く復帰したんだもの。今度だって―」
「肺に穴が空いたんだよ!?」
エーヴは言いかけたジュスタンを遮るように、激しく頭を振った。
「普通なら呼吸しただけで肺がつぶれて死んじゃうんだよ!? 今生きてるのが不思議なくらいだって、お医者さまは言ってた。いつ死んだっておかしくないって!」
「エーヴ…」
「わたし…わたし…どうしたらいい? サイノスに、どうやって謝ればいい? 何をすれば元気になる? 元気になるなら、わたしの命をいつだってサイノスにあげるよっ」
エーヴは泣き崩れた。悲しみがあふれ出して止まらない。
ジュスタンは、そっと彼女の肩に手を置いた。
「エーヴ。駄目だよ、そんなことを言っては。せっかくサイノスが守ってくれた命を粗末にするんじゃない」
「だって…だって…」
「それに、死ぬと決まったわけじゃないんだから、そう簡単に死ぬ死ぬ言うな」
「……なんで…わたしなんかをかばったんだ…サイノス…」
「―バカじゃないの!?」
ハッとして、エーヴは顔を上げた。地上に舞い降りた女神が腰に手を当て、美しい桔梗紫色の瞳を瞋らせていた。
「……アイラ…」
「なぜお兄さまがあなたをかばったのか、本当にわからないの?」
「そ、それは…わたしが至宝天の仲間だから…」
アイラは、つかつかとエーヴに近づいた。
「呆れた。つくづくお兄さまがお可哀想。こんなバカを好きになるなんて」
「えっ…!?」
「なにを驚いているのよ。命の危険があるにもかかわらず体を張ったのは、それしか理由はないでしょう。お兄さまは、あなたのことが好きなの。愛しているのよ、悔しいけど」
「……ウソ…そんなはずない…」
「いつまでもそんなバカなこと言ってると、私がお兄さまを奪ってしまうわよ」
「わたしが…選ばれるわけないんだ…わたしが選んだ男はみんな、別の女を好きになるんだから…」
「知らないわよ、そんなこと。……もう、いいわ。あなたと話していると苛々してくる」
泣くことも忘れて呆然としているエーヴを一瞥すると、踵を返した。唇を強く噛んだ。少し血がにじんだが、気がつかなかった。一度も振り返らず、病室を出た。その足で宿舎の自室へと戻った。
自室のドアを思い切り強く開けると、逃げるように部屋へ飛び込んだ。
ドアを背にしたまま、ずるずると腰を落とす。涙がじわっと沸いてきた。
「―泣くもんか」
ゴシゴシと乱暴に目を拭う。しかし、あとからあとから涙があふれてくる。
「泣かない…こんなことで…失恋したくらいで…泣いたりしないわ…」
視界がぼやけた。次の瞬間、大声で泣き始めた。まるで子どものように。鼻水が流れるのも気にせずに。
リシャールは日没直前だった。真っ赤に燃えた太陽が徐々に地平線へと消えていく。この日最後の光は、リシャールを束の間、血を塗ったように赤く照らし出した。
【裏ショートストーリー】
ジョゼ「アイラ中隊長さまが心配です」
ブリュノ「サイノスの間違いじゃないのか?」
ジョゼ「アイラ中隊長さまのほうですっ!」
マリユス「そりゃ、兄貴が生きるか死ぬかの大怪我を負ったんだ。アイラは心配してるだろうぜ。それが、なんでアイラが、心配なんだよ?」
ジョゼ「女の勘です」
ブリュノ「はあ…?」
ジョゼ「サイノス大隊長さまが撃たれたとき、アイラ中隊長さまの様子が変でした」
マリユス「兄貴が目の前で倒れたんだ。動揺したんだろ。ちっともおかしくねえぜ」
ジョゼ「妹さまなら、すぐお側に駆けつけると思います。それなのに、うつむいたまま立っておられました。打ちひしがれているように見えました」
ブリュノ「だから、すぐ動けないほどショックを受けたんだろ」
ジョゼ「百歩譲ってそうだとしても、リシャールへ戻る間も、サイノス大隊長とずっと距離を取っていらした。まるでエーヴ大隊長にすべて委ねてしまったかのように」
マリユス「……」
ジョゼ「私はずっとアイラ中隊長さまを見ていました。とても辛そうで、思い詰めた様子も見られましたし…きっと何かがあったのです」
ブリュノ「何か、って何だよ?」
ジョゼ「それがわかればいいのですが…嫌な胸騒ぎがします。やっぱり私、アイラ中隊長さまのところへ行ってきます!」
マリユス「おい、ちょっと待てよ! 俺たちも行くって! おい、ジョゼ! 聞いてるか? おい!…………」




