第291話 春風のエレジー
「いってらっしゃい、姫さま」
「いってきます」
ソフィに見送られて、アニェスはアダンと連れ立って皇宮を出発した。
アダンから、オープンしたばかりの『カフェ猫耳2号店』に招待されたのだ。しかも、リオネルもシルヴィアもいない。一人だけの特別ゲストである。
「お付きなしで、ほんとにいいのかよ?」
「アダンがいるじゃない」
アニェスは明るく笑った。
「いざとなったら、守ってくれるのでしょ?」
笑顔が弾けた。幼いころから見慣れた笑顔だった。アダンは、視線を外した。
「……そりゃ、そうだけどよ…」
「それに―」
アニェスは、心底楽しそうに言った。
「―せっかくアダンが誘ってくれたのですもの。二人だけで過ごしたいわ」
「……」
大通りへ出た。目ざとい市民が早速声をかけてきた。
「アニェスさまぁーっ! 今日もデートですかぁ?」
「ふふっ。そうよ!」
「あれ? 前はクリフォードの王太子でしたよね?」
「あいつは、アダンじゃね?」
「なんで、あんな野郎がアニェスさまと連れ立ってるんだ?」
市民の間にざわめきが起こった。
「うるせーっ! 俺がアニェスと連れ立っちゃ、悪ィかよ?」
アダンは怒鳴り返した。しかし、反論が倍になって返ってくる。
「悪いに決まってんだろが!」
「てめえ、何様のつもりだ! アニェスさまに近づくんじゃねえ!」
「クソ商人がっ! アニェスさまを呼び捨てにしやがって。地獄へ落ちろ!」
「やかましいっ! 関係ねえやつは黙ってろ!」
「ふふふっ! 楽しいっ!」
アダンと市民の怒鳴り合い中で、アニェスは鈴を転がすようにして笑い転げた。
「―ったく。ふざけた連中だ」
アニェスたちは、大通りから一本横道に入った。道中、ずっとふくれっ面のアダンをなだめるようにアニェスが言った。
「気にしなくていいわ。みんなも悪気があって言ってるわけじゃないし」
「悪気のかたまりにしか聞こえなかったがな」
「そんなこと言わないの。それより、お店はまだなの?」
「もうすぐだよ」
すると、長い行列が見えてきた。
「あら!? もしかして、この行列…?」
「そうさ。2号店の行列だよ」
「凄いわね。1号店に負けないくらいの人気じゃない」
「おかげさまで好評を博しております、皇女さま」
「あっ…!? アニェスさまだ!」
「アニェスさまぁーっ!」
気づいた行列の人々から歓声が上がった。それにニコニコと微笑みながら手を振って応えるアニェス。アダンは、嫌そうにそっぽを向いた。
しかし今度は、人々からアダンを非難する声は上がらなかった。
行列を横目にアニェスたちは別の出入り口に向かった。予約客専用の出入り口を設けたのだ。
「―いらっしゃいませ! お待ちしておりました、アニェスさま」
店に入ると、オレリアの出迎えを受けた。
「こんにちは。あなたが店長のオレリアさんね、コレットのお友だちの」
「はいっ。今後とも、ご贔屓くださいますよう」
「ふふっ。こちらこそ、お店のこと、よろしくお願いしますね」
オレリアの案内で二人は予約席に腰を落ち着けた。
「―1号店とは、雰囲気が違うのね」
アニェスは、店内をキョロキョロと見回した。
「いいだろ? カップル向けに大人の雰囲気の店にしたんだ」
「ほんとね。シックでロマンチックだわ。これでは私たち、まるで恋人同士みたいね」
「……」
キラキラと輝くアニェスの笑顔から、アダンは目を逸らした。
「……ここは、食事もできるぜ。何か食べるか?」
「あら、そうなの?」
アダンはメニューを渡した。
「……ふ〜ん。パスタとかグラタンとかがあるのね」
「カルパンチエで採れた魚介類を使ったシーフードパスタがお勧めだぜ」
「それにするわ。食後はケーキセットで。ブラックコーヒーとレアチーズケーキでお願い」
アダンが手を上げた。オレリアが飛んできた。どうやらこのVIPには、店長自ら対応するらしい。
注文を終えると、二人は静かに向き合った。
「……アダンと二人きりなんて、久しぶりね」
「そうだっけ?」
「そうよ。たんだか、とても新鮮な気分。初めて会ったときみたいに、ワクワクしているわ」
「……皇族だってのに、庶民が通う幼年学校に入ってきた、クソ生意気なガキだったな」
「まあ、酷い。私のこと、そんなふうに思っていたの?」
「……その上、庶民とは明らかに違うオーラに包まれていた。威厳、というのかな。まぶしかったし、近づき難かった」
「……」
「その点、リオネルはその辺のガキと変わらなくて、気兼ねなく付き合えた」
「お兄さまは、偉ぶるところがなくて、誰隔てなく言葉を交わしていらした。羨ましかったわ」
「お前がか? 何を羨むことがある。みんな、お前のことを羨んでいたってのに」
「そして誰も気軽に接してきてはくれなかった。遠巻きにして見てるだけ。こっちから話しかけても、すぐ離れてしまうし。寂しかったわ。アダンだけよ、口をきいてくれたのは」
「……リオネルの妹だからな。仕方なく、さ」
「またそんな憎まれ口を叩いて。騙されないわよ、心優しいアダン・シュバリエ」
「……」
「あなたの優しさに救われたわ。あなたのおかげで、徐々に周りの子たちも私に話しかけてくれるようになった。感謝しているの。本当よ」
「天下の皇妹殿下に感謝されるとは、俺も大物になったもんだな」
「ふふっ…」
鈴の音を転がすような笑い声が弾けた。
「……照れちゃって、可愛いわ」
「バ、バカ言え。誰が照れるか!」
「長年の付き合いだもの、わかるわよ」
「……」
「……綺麗ね」
「えっ…!?」
「あなたの瞳、本当に綺麗。子どものころからずっと変わらない。好きだったわ、その瞳」
「……」
「―お待たせしました」
オレリアが注文の品を運んできた。目の前に置かれたパスタを見て、アニェスが歓声を上げた。
「あら、美味しそう!」
会話が中断された。アダンは、ほっとしたような残念そうな、複雑な表情を浮かべた。
それからは、食事を楽しみながら他愛ない話を続けた。特にシルヴィアの話は大いに盛り上がった。
アダンとシルヴィアの出会いは最悪だった。大喧嘩の果てにアニェスが一喝してその場を収めたのだ。その後、コレットの大怪我など紆余曲折があって、今や二人は盟友と言ってもいい程の間柄となっている。
「―猫耳王女さまのおかげで、俺の商売は右肩上がりだ。あいつは、福を呼ぶ招き猫だな」
食後のコーヒーを味わいながら、アダンが言った。
「口が悪いわよ。お義姉さまを猫呼ばわりするなんて」
「私は猫じゃありませんっ、…てな」
「アダンったら…」
アニェスは笑い崩れた。本当によく笑う少女だ。いや、アニェスももう、今年で18だ。妙齢の大人の女性である。それこそ、いつ結婚してもおかしくない。事実、クリフォードの王太子との婚姻話が進んでいる。
「―なあ、アニェス」
「なあに?」
「……いや、何でもない」
目を逸らしたアダンを、黒い瞳がキラキラと見つめた。
「―アダン。この後、どこへ連れていってくれるの?」
「えっ…」
「ここで終わりではないのでしょ?」
「……」
アニェスを連れ出した名目は、オープンしたばかりのカフェ猫耳2号店への招待だ。ここで帰しても何ら不思議ではない。しかし…
「……ちょっと寄りたいところがある。付き合ってくれ」
「そうだと思った。もちろん、いいわ」
ケーキセットを綺麗に平らげると、二人は店を後にした。
アダンは、黙ったまま、ずんずん先へ進んでいく。アニェスも、口を閉ざして少し後ろをついて歩いた。
やがて、高台にある公園に出た。ここからならリシャールの街が一望できる。
「―ああ! 懐かしい」
アニェスは、手すりに掴まり、身を乗り出した。
「子どものころ、よく三人でここに来て眺めていたわ」
「……ここから街を見るのが好きだったろ?」
「ええ。素敵」
飽くことなく見つめ続けるアニェスの横に並んだ。
昼下がりの街は、人々が行き交い活気に溢れていた。平和で豊かな営みが、そこにはある。
「―みんなの暮らしを護る責任が私たちにはあるわ」
じっと景色を見つめながら、アニェスは言った。
「もっともっと精進しなければ。みんなの幸せのために。この先の未来のために」
「……クリフォードの王太子と結婚することが、みんなの幸せにつながるのか?」
ぽつりと言ったアダンに、アニェスは向き直った。
「ええ、そうよ。ウィンストンさまは、婿になってくださるの。王太子の地位を失うことも厭わずに。その御心に応えたい」
「お前自身の気持ちはどうすんだ?」
「……どういう意味?」
「好きでもない男と結婚して、幸せになれるのかよ?」
「……お義姉さまは、会ったこともないお兄さまと結婚なさって、とても幸せにお暮らしだわ。私にできないはずはない」
「できるできないの話じゃ、ねえだろ。好きか好きじゃないかだろ?」
「―ねえ、アダン。子どものころ、結婚式のまねごとをしたの、覚えてる?」
「忘れるわけねえ」
「あのとき、初めて私だけを誘ってくれた。とても嬉しかった。だって、アダンのこと、好きだったから」
「……過去形かよ」
「ふふ。そういえば、さっき、あなたの瞳を好きだったと言ったけど、今も好きよ」
「……やめちまえ」
「え…」
「王太子との結婚、やめろよ。やめて、俺と―」
透明に近い薄い青色の瞳が、アニェスを見つめた。
「―俺と結婚しろ」
「……ありがとう」
アニェスは、微笑んだ。すべてを超越したような、神々しい光に包まれた笑顔だった。
「アダンの気持ち、とても嬉しい。これで、思い残すことなくウィンストンさまと結婚できる」
「アニェス…」
「もう決めたの。これでいいのよ。私はクリフォードの王子と結婚する。だから、あなたも私のことは忘れて、新しい恋を探してね」
「アニェス…俺は…」
そのとき、春の強風が一陣、高台を吹き抜けた。それは、アニェスの黒髪を乱して通り過ぎていった。
アダンは、乱れた髪を直そうと伸ばした手を、寸前で止めた。
アニェスの黒い瞳が、涙で溢れていたからである。
春の強風は、木々を揺らし、人々の心を揺らしながら、無造作に吹き抜けていった。
【裏ショートストーリー】
ソフィ「姫さま。本当に何もしなくて良いのですか?」
アニェス「ええ。このままでいいわ」
ソフィ「普段着ですよ。せっかくアダンさまがお誘いくださいましたのに」
アニェス「だからこそ、普段のままでいいのよ」
ソフィ「……せめて、メイクだけでも整えらしては?」
アニェス「必要ない。お化粧もいつもと同じでいいの」
ソフィ「……想い人でしょうに。どうしてオシャレをなさらないのですか?」
アニェス「だって、想いを断ち切るためのデートですもの。自然体で望みたいわ」
ソフィ「最後の思い出になさるおつもりで?」
アニェス「そんな大げさなものではないけれど…」
ソフィ「どうしてですか? どうして姫さまばかりがいつも己を殺さなければならないのですか?」
アニェス「そういうことではないわ。私は、私のなすべきことを全うするまでよ」
ソフィ「……姫さまがお可哀想です」
アニェス「そんなこと言わないで、ソフィ。私は少しも自分が可哀想だなんて思ったことはないわ。お義姉さまに救っていただいたこの命、最も有効に使いたいだけなの」
ソフィ「そういうお考えそのものが不健康だとは、お思いになりませんか?」
アニェス「もう決めたことだから」
ソフィ「姫さま…」
アニェス「泣かないで。もうすぐアダンが来るわ。怪しまれる」
ソフィ「女神さまを恨みます。姫さまがお可哀想過ぎる」
アニェス「ソフィ…ありがとう」




