第280話 生命、宿る
「……セルジュさまから連絡があったのですって?」
アニェスのサロンでの三頭会談である。リオネルの執務室ではないので、非公式会合ということになる。
「法律制定の件で報告したいのですって。ついに完成したらしいですわ」
アニェスが微笑みながら言った。毎度のことながら、笑顔が似合う女神さまである。
「……とうとう出来上がったのね。きっと、バルケッタの尽力の賜物ね」
「バルケッタも連れてくるそうですよ」
「……バルケッタに会うのも久しぶりだわ。楽しみ」
「……」
アニェスは、シルヴィアの様子に小首を傾げた。何か違和感を覚えたのだろうが、口にしたのは別のことだった。
「キトリーからも報告があって、近いうちに、水道施設の工事を始めるのですって」
「……少しずつ、形になり始めるのですね。あたしたちの政が」
「まだまだ手始めですわ。これから、もっともっと世の中を変えていかなくては」
「……そうですね…」
「……お義姉さま―」
やはり違和感が拭えないアニェスが尋ねようとした、そのとき。
「―失礼いたします」
セルジュがバルケッタを伴って現れた。アニェスは、シルヴィアの横顔を見つめながら言葉を呑み込んだ。パァッと明るい笑顔が広がったからだ。
「バルケッタ! 久しぶりね」
「シルヴィアさま! ご無沙汰しております」
しばらく見ないうちに、また一段と男っぷりが上がった。超がつくイケメンになりつつある。体格だけなら、立派な青年だ。
バルケッタは、リオネルの背後に控えるギーにも笑顔で挨拶した。ギーは、深くうなずいた。
「両陛下並びにアニェス殿下、かねてよりご指示の法律制定につきまして、完成したことをご報告いたします」
真面目なセルジュが畏まって言上した。
「よくやった、セルジュ、バルケッタ」
リオネルが労った。
「すべてバルケッタの功績にございます」
「恐れ多いことです」
バルケッタは殊勝に頭を下げてみせた。
「仕事の場を与えてくださった両陛下、アニェス殿下、セルジュ丞相閣下のおかげです」
「正直、バルケッタの知識量には驚かされました。彼がいなければどうなっていたか、わかりません」
誠実な人柄そのままに、セルジュはバルケッタを褒め称えた。決して部下の功績を横取りしようとはしない。この場に連れてきている一事をもって証明している。
「その法律を見せてもらおうか」
「はっ」
セルジュは、紙の束をリオネルの前に差し出した。
「等しく国民が守るべき理念を定めた全67条からなる『憲法』を最上位法とします」
「……なるほど」
リオネルは、ざっと目を通すとシルヴィアに紙の束を渡した。
「……旦那さま。ちゃんとお読みになったの?」
咎めるように言う。しかしリオネルは朗らかに笑った。
「もちろん、後でじっくり読むさ。でも、俺はセルジュやバルケッタを信用している。その連中が練りに練った法律なんだろ? 間違いがあるはずねえ」
「……旦那さまったら」
呆れながらも、目は笑っている。
「セルジュさま。バルケッタ。本当にご苦労さまでした」
アニェスが輝く笑顔を向けた。
「お二人には、何とお礼を言ったらいいか、わからないわ」
「滅相もございません、殿下。職責を全うしただけにございます」
「それでも、嬉しいの。お兄さまの理想とする社会を土台から支える大事な法ですもの。これがなければ何も始まらないわ。本当にありがとう」
「ははっ。もったいなきお言葉。これまでの苦労が報われる思いにございます」
「……本当によく出来てるわ」
シルヴィアは、丁寧に条文を読みながら言った。
「旦那さまの政策5本柱を中心に、完璧に理念が網羅されている」
リオネルの政策5本柱とは次のとおりである。
一、種族間の差別禁止。
一、貴族、平民間の差別禁止。
一、奴隷制度の廃止。
一、徴兵制度の廃止。
一、王侯貴族を含めた国民全員が守るべき法律の制定。
このうち、種族間の差別禁止や徴兵制度の廃止は、布告済みだ。今後、貴族たちにハレーションを起こすとしたら、後回しにしていた貴族、平民間の差別禁止と奴隷制度廃止だろう。
「……それでも、やり抜かなくてはならないわ。そうでなければ、旦那さまが皇帝になった意味が―」
言いかけてシルヴィアは、ふいに口元を押さえた。
「……す、すみません。ちょっと中座しま…」
シルヴィアは、走るようにしてサロンを飛び出した。慌ててコレットたちが後を追う。
セルジュとバルケッタは、唖然として見送った。
「……大丈夫かしら、お義姉さまは」
心配そうなアニェスに、リオネルが何気なく言った。
「最近、調子悪いんだよ。ときどき、ああして洗面所に飛び込んでる」
「えっ!? よくあるのですか? 今日が初めてではなく?」
「……ああ」
「いつから? いつからお義姉さまはあのような様子なのです?」
「う〜ん、どうだろう? 2週間くらい前からかなぁ…」
のんびりと答えるリオネルとは正反対に、アニェスの顔色が変わった。
「……ちょっとお義姉さまの様子を見てきます」
アニェスは急いだ。洗面所に入ると、シルヴィアは洗面台に首を突っ込んでいるところだった。
「……ゲーッ!」
「シルヴィアさまっ、大丈夫ですか!?」
コレットが背中をさすって懸命に介抱している。
「……お義姉さまの具合はどう?」
「あ…! アニェスさま」
顔を見合わせていたサンドラとメロディが、すぐに寄ってきた。
「アニェスさま。これは、もしかしたら…」
「サンドラもそう思う?」
「はい。私にも覚えがあります」
「私も、たぶん間違いないと思います」
メロディが同意した。
「経験者の二人が言うんだから、これはもう、間違いないわね」
アニェスは、つとシルヴィアに近づいた。
「―お義姉さま。気をしっかり持って聞いてください」
「にゃ…」
真っ青な顔を上げて、シルヴィアは義妹を見た。
「……お義姉さま、妊娠、なさっているのではないですか?」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「ただいま」
「お帰りなさい、旦那さま」
シルヴィアはいつものように、仕事から帰ってきたリオネルを出迎えた。
「大丈夫か? 体のほうは?」
リオネルは、ずっとシルヴィアの体調を気遣ってくれている。嬉しいやら恥ずかしいやら、さまざまな感情が渦巻いた。
「……ありがとうございます。実は、そのことで旦那さまにご報告したいことがあるのです」
「なんだ?」
ソファに落ち着いたところで、切り出した。
「昼間、セルジュさまが法律のことでご報告にみえられたとき、気持ちが悪くなって退出してしまったでしょう?」
「うん。最近、よくああなるよな」
「あのあと、アニェスさまやサンドラたちが心配してくれて、お医者さまに診ていただいたのです」
「えっ!? 聞いてないぞ」
「ごめんなさい。もし勘違いだったらいけないと思って、旦那さまには内緒にしていました」
「……まあ、いい。それで、どうだったんだ? まさか、変な病気じゃないだろうな?」
心配そうなリオネルに、満面の笑みで答えた。
「いいえ! 病気じゃありません。妊娠でした」
「なんだ…。良かった。病気じゃなくて妊娠か」
ほっとしたように肩の力を抜いたリオネルは、ふと変な顔をした。
「妊娠…?」
「はいっ! 妊娠です」
「えっ―」
絶句したまま、リオネルはにこにこと微笑むシルヴィアを見つめた。不思議な間が空いた。やがて我に返ったリオネルは、肩を掴んだ。
「―妊娠、って、子どもができたってことか?」
「はいっ! あたしたちの赤ちゃんです」
リオネルの表情がパァッと明るく輝いた。
「俺たちの子どもが…! 子どもができたっ!」
リオネルは思わずシルヴィアを抱きしめていた。
「でかしたっ! よくやった、シルヴィアっ!」
「はい。ありがとうございます」
「……あ、すまん。大事な体なのに抱きついちまって」
慌てて体を離す。
「それくらいなら、全然大丈夫ですよ」
シルヴィアはお腹に手を当てた。これまでに見たことのないような、とても優しく穏やかな表情だった。
「7週目ですって。フレイモスの一月前には生まれるそうです」
「―うおぉ〜っ! やったぁ〜っ!」
突然、リオネルは雄叫びを上げた。
「俺たちの子どもだぁ〜っ! やったぁ〜っ!」
飛び上がって踊り始めた。全身で喜びを爆発させるリオネルに、シルヴィアは笑い崩れた。それは、幸せに満ち溢れていた。
「ンもう、旦那さまったら、喜び過ぎっ!」
【裏ショートストーリー】
コレット「シルヴィアさま、遅いですね」
サンドラ「検査に手間取ってるのかもな」
コレット「……もし違ってたらシルヴィアさま、がっかりなさるでしょうね」
メロディ「大丈夫っ。絶対、あれは懐妊なさっています」
アニェス「メロディが太鼓判を押すのであれば、間違いないわ」
コレット「あっ! シルヴィアさまが出てこられました!」
シルヴィア「みんな、ごめんねえ、待たせちゃって」
コレット「そんなことは、いいですから、結果はどうだったんですか?」
シルヴィア「それがね………」
コレット「えっ!? まさか、違ったんですか?」
シルヴィア「……妊娠して…ましたぁーっ!」
メロディ「きゃあ〜っ! おめでとうございますぅ!」
シルヴィア「ありがとう、メロディ」
サンドラ「おめでとうございます、シルヴィアさま」
シルヴィア「ありがとう、サンドラ」
コレット「……良かったぁ〜。もうっ、シルヴィアさま。脅かさないでください。変に溜めるから、嫌な想像しちゃったじゃないですか!」
シルヴィア「ごめんごめん、コレット」
アニェス「お義姉さま、おめでとうございます。待望の赤ちゃんですね」
シルヴィア「ありがとう、アニェスさま。ご心配ばかりかけてごめんなさい」
アニェス「とんでもない。お義姉さまのご苦労に比べたら、私は何もしていませんわ」
シルヴィア「……旦那さま、喜んでくれるかな?」
アニェス「喜ぶに決まってます。有頂天になって踊り出しますわ、きっと」
シルヴィア「ふふふっ…。あたしたちの赤ちゃん…。ありがとう、あたしたちのところに来てくれて」




