第275話 春の足音
「よう、リオネル。今日は、シラフか?」
アニェスのサロンに入ってくるなり、ウィンストンはリオネルをからかった。
「俺のことは、ほうっとけ」
リオネルは口を尖らせた。
「ウィンストン殿下、まずはお座りください」
「陛下の仰せのままに」
仰々しくお辞儀をして、ウィンストンは示された席に座った。
「殿下。先日は旦那さまがお見苦しいさまをお見せし、大変失礼いたしました」
殊勝にシルヴィアは頭を下げた。ウィンストンは、鷹揚に手を振った。
「いや、お気になさらずに。これまでも多くの酔っぱらいを見てきましたから」
「おい! ウィンストン。俺は酔っぱらってたんじゃねえ。二日酔いで具合が悪かっただけだ」
「それを酔っぱらいというんだ」
反論するも、ウィンストンにあっさり断じられて、リオネルは悔しそうにそっぽを向いた。その様子をくすくす笑いながら、シルヴィアは言った。
「私たちが退出したあとのことを、アニェスさまからお聞きしました。まずはお礼を申し上げます。我が義妹への結婚のお申し出、大変ありがたくもったいないお話と、家族一同慶んでおります」
「……」
ウィンストンは、黙ったままのアニェスに視線を向けた。少しうつむき加減で静かに座るその姿は、清麗で気高く何者にも侵しがたい気品と威厳に満ち溢れていた。
「……無論、今すぐ結婚しようということではありません。和平条約が成った暁には、正式に申し入れさせていただく所存」
「それは、条約の条件にはしない、と承知してよろしいかしら?」
「当然です、陛下。こちらは条件をつけられる立ち場ではない。条約とはまったく別に、アニェスさまとの婚約をお認めいただきたい」
「そうは仰っても、一国の皇妹と王太子の結婚となりますと、公人の立ち場を無視して話を進めるわけにもまいりませんわ」
「仰る意味はよくわかります。ただ、王族とて人には違いない。人として恋心を抑えることはできません。ぶっちゃけ、私はアニェスさまに一目惚れしたのです」
「まあ…」
先日の愛の詩もそうだが、この男は、恋愛についてはあけすけに語る性格らしい。そこは、リオネルと大きく違うようだ。
シルヴィアは、ちらっとアニェスの様子を窺ったが、何の表情も浮かんではいなかった。
「殿下の率直な物言い、私は好きですわ。下手に遠回しに言われるより、よほどすっきりします」
「お褒めいただき恐縮の限り」
そう言いながら、ウィンストンはふとリオネルを見た。表情は落ち着いている。妹を溺愛しているという話だったが、特に反対するでもなく、妹と同様無言で静かに座っている。
どうやら、事前に三人で打ち合わせをしているようだ。シルヴィア一人が口を開いているところをみると、彼女が今日のスポークスマン役らしい。
「―和平条約のみならず、貴国と同盟を結ぶは、我が国にとりましても望むところ。されど、先のいくさで我が国民にも多くの犠牲者が出ました。―殿下もご存知かと思いますが、義妹は国民に大変な人気がありますの」
「……承知しています」
「その義妹が、貴国に輿入れするとなると、国民感情が許さないと思います。まるで我が国が敗戦国のようではないか、と」
「……」
「実は義妹は、このお話に前向きなのです。両国の架け橋になれるのであれば、喜んで殿下に輿入れしたい、とまで言ってくれました」
「それは身に余る光栄」
「さりとて、国民感情を無視するわけにもまいりません。反対派が殿下の身に危害を加えようとするかもしれませんし…」
「……」
「そこで殿下にご提案したい。殿下が我が国に婿入りする、ということであれば、私たちは国を挙げてお二人の結婚を祝福いたします」
「……」
ウィンストンは、三人を順々に眺めて回った。どの顔も何の感情も表していない。
「……承知しました」
「にゃっ…!?」
シルヴィアの表情が動いた。しかし、アニェスとリオネルは変わらない。
「即決なさってよろしいの?」
「構いません。貴国がそれをお望みであれば、喜んで婿入りします」
「王太子の地位を投げうつことになりますが?」
「すべて承知。貴国も承知の上でご提案くださったと思うが?」
「それはそうですが…」
シルヴィアは戸惑いを隠せない。それに被せるように、ウィンストンはきっぱりと言った。
「世継ぎについては、父がどうにかするでしょう。前にも話したが、もともと人質として参った身。貴国で斃れることも覚悟の上だったのです。それを婿として受け入れてくださるのであれば、これ以上の慶事はない。―いや、是非とも婿入りさせてください。お願い申し上げる」
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「アニェスさま。お寒くはありませんか?」
ウィンストンは、隣を歩くアニェスを気遣った。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。今日はリシャールにしては暖かい日ですわ」
二人は、皇宮の庭園を散策していた。
サロンでの会談が終わったあと、ウィンストンが誘ったのである。庭園の散策を希望したのはアニェスのほうだったが。
「……アニェスさまが結婚に前向きとは、驚きました。もちろん、俺にとっては嬉しいことなのですが」
「私だって、結婚に憧れはありますわ」
「意外でした。申し込んでおいてなんだとお思いになるかもしれんせんが」
「それより、殿下のご決断のほうが驚きました。本当に王太子の地位を失ってもよろしいのですか?」
「それは、俺が提案を断ると見越していた、ということですか? だとすると、がっかりだなあ。少しも前向きではないことになる」
「そんなことありません」
ふふっとアニェスは小さく笑った。その笑顔を見ながら、ウィンストンがぽつりと言った。
「アニェスさまの本心は、どこにあるのかな」
「え…」
「俺があなたに一目惚れしたのは本当です。会ったばかりであなたのことは何も知らないが、この人こそ、運命の女性だと確信しました」
「それは、恐縮です」
「外交辞令じゃ、ありませんよ。本心です。心からあなたのことが好きになりました」
「……」
「でも、あなたの心がわからない。俺のことをどう思っているのですか。もし、政略結婚のように思っているのだとしたら、この話は撤回してもいい」
「……」
アニェスは立ち止まった。うつむき加減でしばらく佇んだ。ウィンストンは、静かに待った。やがて、アニェスにしては珍しく、おずおずとしたように口を開いた。
「……正直、よくわからないの」
「わからない…」
「好きなタイプだとは思います。好もしい男性だとも思います。ただそれが、愛という感情なのか、自分でもよくわからないのです」
「……」
庭園では、チューリップやアネモネが満開であった。色とりどりの花々が妍を競っている。春の足音は確実に近づいている。
「先ほど、殿下は政略結婚と仰いました。皇族に生まれた以上、自由恋愛など望むべくもないと思って生きてきたのです。だから、よく知らない方と結婚することに驚きや戸惑いはありません」
「……」
「愛があろうとなかろうと、皇帝陛下の御為になることであれば、喜んで身を捧げます」
「……急ぐことはない」
「え…」
「……ゆっくりと、お互いのことをわかりあえばいい。俺たちは、まだ出会ったばかりなのだから」
「ウィンストン殿下…」
「今度、一緒に街中へ出ませんか」
「街中へ…?」
「宮殿の庭園もいいが、リシャール市民と触れ合ってみたい。あなたも、そういうことは嫌いではないとお聞きしています」
「それはそうですけど…」
「何かご懸念でもお有りか?」
「二人でいるところをみんなに見られたら、なんて思われるかしら」
「別に構わないではないですか。友人として共に楽しい時間を過ごしているだけですから」
「……そう…ですわね」
アニェスの顔に輝くような笑みが花開いた。ウィンストンは、その笑顔をじっと見つめた。
「……わかりました。殿下との街中デートを楽しみにお待ちしておりますわ」
【裏ショートストーリー】
リオネル「アニェスが、ほかの男と結婚しちまう…」
シルヴィア「旦那さまっ。そんなあからさまに落ち込まないでください」
リオネル「だって、あのアニェスが、俺のアニェスが、いなくなっちまうんだぞ」
シルヴィア「だから、婿入りを提案することにしたのではありませんか。それは旦那さまも納得済みのはずでしょ?」
リオネル「そうだけどよぉ〜。結婚することには変わりねえだろ? ほかの男のものになるってことだろ?」
シルヴィア「当たり前ではないですか」
リオネル「あぁ〜っ! 信じられねえ! あんな可愛かったアニェスがぁ〜っ! あんなことやこんなことをされるのかと思うと、気が変になりそうだぁ〜」
シルヴィア「……最っっっ低! いったい何を想像してるのっ!」
リオネル「アニェスぅ〜。気が変わって俺のところに戻ってきてくれえ」
シルヴィア「戻りませんっ。いい加減、妹離れしなさいっ」
リオネル「嫌だっ、アニェスは永遠に俺のアニェスだっ」
シルヴィア「……結局ゴネるのね。あたしの手には余るわ。アニェスさま、説得してくださらないかしら」
リオネル「アニェスにだって、説得されねえぞ!」
シルヴィア「説得しに戻ってくるのよ?」
リオネル「あっ!? そ、そっか! わーいっ! お兄ちゃん、待ってるぞ! 早く説得しにきてくれ〜」
シルヴィア「……皆さまもご一緒にご唱和ください。はい、せーの、『ダメだ、こりゃ』」




